不定期刊行             18  2002.7.12

中信高校山岳部かわらばん

編集責任者 大西 浩

                             木曽高等学校 定時制

夏山間近、プレ山行とベーキャン設営の話題二題

   その1 木曽高校では7月6日、7日の一泊2日で、夏山プレ山行を行いました。参加したのは、全日の女生徒が3人、定時から男子1人、顧問は筒井、向井(日帰り)、大西の3人。初日は一の沢から常念乗越まで、翌日は強風と雨の中常念を越え、蝶ヶ岳まで縦走し、三股へ下りてきました。一の沢は例年よりやや雪が多く、胸突きの下まで雪渓が残っていました。常念乗越にはコマクサが満開で生徒も大喜び、夏はもうそこまで来ています。夜の強風と翌日の風雨に身体も冷えて、だいぶ消耗しましたが、下山してホリデーユーに浸かった生徒たちは満足。夏山プレとしてはまあまあの成果を挙げて帰ってきました。

    その2 ベーキャンといって分かる人は、松本周辺の高校の関係者かな?上高地の小梨平に今年もベーキャンを設営するのは、県ヶ丘の山岳部と深志の山岳部。高校時代に山岳部ではなかった私ですが、ベーキャンには思い出があります。クラスキャンプでは毎年使わせてもらいました。クラスキャンプが終わった後、一人残って西穂に登ったりもしたものです。そのベーキャンの設営作業を深志は13、14日に県は15、16日に行うそうです。深志のベーキャンは、新調してだいぶ小さくなったそうです。時代が変わり、使う人も減ってきたとのことですが、頑固に伝統を守り続けているこの2校の山岳部。今の生徒はそれほど意義を感じていないかもしれませんが、OBや顧問の思い入れは強いものがあります。なくさずに残してほしい伝統です。

県下の山岳部におけるクライミングの流れ その3(承前)

一方、時を同じくして持ち上がったのは、日山協に新たに置かれることになったジュニア委員会と国体少年の部へのクライミング導入に対して、高体連としてどのように対応するかという問題でした。この時期にジュニア委員会を立ち上げるということが、当時声高に言われていた国体改革(踏査競技の廃止と少年へのクライミングの導入など)と何らかの関わりがあるのではないか、と多くの県では危惧したのです。インターハイへのクライミングの導入の検討など様々な問題も関わって来そうだということで、ジュニア委員会に対しては、県や地方によってかなり意見が分かれました。

94、95年ごろ(だと思います)、日山協の中に新たな委員会として、ジュニア委員会の設置が決まりましたが、それに伴って日山協からは、当時静岡にあった全国高体連事務局に、機関としてこの委員会に代表者を送ってほしいとの要請がありました。このころ、全国高体連ではクライミングの導入について、毎年議論が交わされている最中でしたが、日山協との関係においても、国体を含め日山協に全面協力している県や地域と、必要な部分について関わっている県、さらには全く距離をおいて関わっていない県など、地域によってスタンスは様々でした。このような状況の中で、日山協から高体連にボールが投げられ、高体連としてはどう対応するかが、常任委員会および専門委員長会議において議論されたのでした。

実際にジュニア委員会の設置が提起されたときに、反対する県が主張したのは、これに高体連が関わることによって、(競技化の進んだ)国体へ関わることになり、それが結果として安全登山の普及を目的にしている高体連の大会そのものを変えてしまうのではないかということでした。これらの県には国体アレルギーともいえるようなところもあり、日山協に協力(特に国体の面で)することは高校登山にとってなんのメリットもないのではないかという意見を述べたのです。それに対し、都会のクライミング等が普及していた地域などは、クライミングを高体連の大会などにも導入し、変えていくためには、もっと積極的に日山協とも結んでいくべきだと主張をしました。長野県の立場は、当時はどちらかというと前者に近いものでした

おりしも県の専門委員長で、たまたま回り順で北信越の代表として全国高体連の常任委員をしていた私は、ちょうどその会議の場に居合わすことになったのですが、当時の全国高体連事務局長などは、オブザーバーとしてジュニア委員会に参加する中で、かなり積極的に日山協と手を結ぶ方向を模索していました。しかし、事務局内でも様々な意見があり、結局2年間検討を重ねた結果、97年に全国高体連が出した結論は「ジュニア委員会については、その中身がよくわからないので、具体的になってくるまでは高体連の組織としては当面静観する」というものでした。

現在、日山協傘下の長山協にもジュニア委員会がおかれており、委員長は岡谷工業の村主先生です。長山協にこの委員会がおかれたのは今から4年前の1998年のことでした。前年来、日山協からは各県にジュニア委員会の設置が提起されていましたが、97年の12月および2月の長山協の理事会において、長山協にもジュニア委員会をおきたいという提案が事務局からありました。当時高体連の担当として理事会に出ていた私は、全国および長野県内の実情も踏まえながら、「現状では高体連の組織としては、ジュニア委員会へ人的な協力などは難しい。ジュニア委員会は当面の仕事としてはクライミングが中心になるだろうし、それも必要だが、それだけに終始してはもらいたくない。広く未成年の若者に夢を語れるような、また若者を育てられるような委員会に育てていってほしい。そのためには協力もできるだろう」というようなことを述べたのを覚えています。

こうして長山協にもジュニア委員会が設置されることになりました。長山協においては、普及指導部に属し、高校生を含む少年たちの登山やアウトドア活動のために資する活動の援助をするためにおかれています。しかし委員会とはいえ名ばかりで、実質も形式も委員長一人の委員会でした。そこで、当面という断りの中で、高校生や小中学生のクライミングをサポートすることをその仕事として行ってきたわけです。初代委員長は山口先生(現中条高)、2代目は浮須先生(現池工)で、いずれも高体連のこともよくわかっている先生たちです。その先生たちがいわば手弁当で身銭をきって少しずつ高校生のクライミングを普及しようとしてきました。(続く)

編集子のひとりごと

ジュニア委員会の問題については、わかりにくいことも多いかと思います。これは次号でお伝えする「県内クライミングの流れ その4」の布石です。この過程があって次号に続くので、敢えてわかりにくいことを書きました。嫌にならずにおつきあいしてください。今日は中信地区安全登山研究会が行われます。(大西 記)