不定期刊行             33  2002.10.31

中信高校山岳部かわらばん

   編集責任者 大西 浩

                             木曽高等学校 定時制

高知国体顛末記@・・・まずはルールの説明から

 第57回国民体育大会山岳競技は、10月26日から30日の日程で高知県で行われ、長野県からは予選を勝ち抜いた成年女子と、全県参加が認められている成年男子の2種別が出場しました。結果からいうと、入賞は成年女子の縦走が8位入賞、それ以外は惜しくも入賞は逃しました。しかし、男子も縦走では出場46チーム(沖縄は不参加)中14位とすばらしい記録を残しました。南国高知で行われた大会でしたが、折からの寒波の襲来でこの時期の高知にしては記録的な寒さの中での大会でした。私は女子チームの監督でしたので、感想も含めその記録をご報告します。

 今回の大会から、踏査競技が廃止され、少年にもクライミングが導入され、少年成年ともにクライミングと縦走の2種目で競われました。さらにクライミングに予選が導入され、上位8チームが決勝を行うというのも初めての試みでした。また地元高知県が「強化は行うものの、勝利に必ずしもこだわらない」(橋本知事)というのも今までにないことで、その点も注目点の一つでした。

 インターハイとは全く異なる国体について、まずご存知ない方のためにルール説明から。チームは監督と3名の選手の4名で構成され、縦走競技とクライミング競技の両方で総合順位(それぞれの種目でも8位までは表彰されます)を競います。縦走もクライミングも、おのおの出場選手は2名ですが、登録された選手は、少なくとも一種目以上の競技に参加することが義務付けられています。つまり、3名のうちの一人は2種目に出場しなければなりませんが、あとの2名はどちらか一種目に出場することになります。

縦走は規定重量を背負った全選手が同時にスタートし、選手ごとにゴールまでの所要時間を計測し、チーム2人の所要時間の合計により、時間得点を算出し、その得点で上位を競うものです。またクライミングはオンサイトリード方式で行われますが、競技は用意された2面のクライミングウォール(2面とも同グレード)をチーム2人が同時にクライミングして、実施します。つまり同じ県の選手が2人同時に隣同士で壁に取り付くわけです。壁のグレードは出場選手の顔ぶれを見て、大会本部が決めます。ちなみに今回の女子の予選のグレードは埼玉の森下先生に聞いたところ、11Dぐらい(僕は登れない・・・)かなと言っておられました。そして、二人の到達高度の合計高度により得点を算出し競います。

そうして、出した種目ごとの順位を種目得点とし、2種目の種目得点を合計し点数の少ないほうから総合順位をつけます。つまり、両種目1位ならば総合2点、縦走が3位でクライミングが2位ならば、3プラス2で5点という具合です。そして、この総合順位が国体の県の得点に関係してくるのです。

かつては3名が縦走し、3名が揃わなければゴールとはみなされませんでしたが、今は個人ごとの記録を計るということで、より競技化が進んでいます。かつて国体にかかわっていた人からすれば、「あれ?」というような部分もあるかもしれませんね。

高知国体顛末記A・・・残念、クライミング予選突破ならず

大会初日の26日はクライミングの予選が行われました。監督はといえば、競技が始まってしまえば、一切の指示を出すことは公平性の観点から許されず、観客席から「がんばれ」という声をかける以外ありません。競技時間は6分間。すでに多くの県が競技を終了し、長野は13番目のスタート。スタート直前にアイソレーションルームの選手と別れ、観客席に向かい、ずっと最初から見ていた浮須先生と合流し、他県の様子を聞くと予想外に他県のレベルがそろっているとのこと。比較的下部は易しく、みなかなり上部の同じようなところで落ちているとのこと。結局我が県のエース羽山さんが見事完登(完登者は全30人中羽山さんと東京の選手の二人だけ)したものの、他県の選手も多くが終了点直前までは登れていたため、それほど圧倒的な差をつけることができず、2人の選手をそろえた他県の前に一歩及ばず、結局予選落ちということになってしまいました。

しかし出場選手中おそらく最も小柄な羽山さんの素晴らしい登りは、ルートセッターにして解説者の東秀磯さんからも賞賛されました。またもう一方の松岡選手はあともう一歩というところでフォールしてしまいましたが、一挙手一投足が注目されるクライミングにおいては慣れない選手の緊張感は相当なもの。そんなプレシャーの中、クライミング歴わずかに4ヶ月ながら、着実に成長した姿をみせてくれました。

高知国体顛末記B・・・縦走で雪辱

27日は三嶺山系の矢筈山で縦走競技が行われました。この矢筈山のキャンプ場は今から4年前のインターハイの時にも使ったところでした。当時県の専門委員長をしていた僕は、北信越の常任委員も務めていたため、審査員として参加しました。スタート地点の下部には当時審査員で参加したときの懐かしい公民館もあり、僕にとっては思い出の場所でした。まさかまたこの地にやってくるなどとは夢にも思っていなかったのですが、その地で幸運にも入賞することができたわけです。

ゴール地点となる山頂直下の鞍部は1600mあまりの標高があり、朝の開始時の連絡では気温1度、風速は15mから20mとのことでした。2週間前に練成ではいった時に我が県の竹内選手は標高差900m、水平距離7.6kmのこのコースを10kgの荷を背負って82分で登っていました。しかし、前日までに私が集めた情報では、東京の選手が75分台、広島が78分の選手を擁し、神奈川は81分の選手を二人揃えており、そのほか京都の選手も強いという評判でした。そんな中、午前10時選手が一斉スタート。監督である僕は紅葉の進む山道をゴール地点へと急ぎました。途中経過ではやはり東京がダントツで早く、広島、京都、神奈川の二人、さらには熊本の選手の通過がアナウンスされた直後、7番手に長野竹内選手のコールがありました。さらに松岡選手も17番手で通過。二人ともいい位置につけて最後の稜線に出ました。その後しばらくしてトップの東京がなんと72分でゴール。上位は途中経過とほとんど変わらないまま、相次いでゴールする中、最終的には竹内選手が10番、松岡選手が18番でゴール。竹内選手は稜線に出て、つまずいてころんでしまったとのことで、そのときに何人かに抜かれてしまったようでした。しかし、二人の合計タイムでは8位。国体では監督も含め全員に個人名のはいった立派な賞状が授与されます。たかが国体、されど年甲斐もなく、うれしかった私です。(以下次号に続く。 大西 記)