不定期刊行             74号  2003.11.16

中信高校山岳部かわらばん

    編集責任者 大西 浩

                      木曽高等学校定時制

小林俊樹古稀記念出版「山ときどきの心」

「小林俊樹」という名前をご記憶だろうか?今から4代前の県の登山部長(大町北高校長:在1989〜1991)である。登山部長としては、湯ノ丸、荒船、美ヶ原の3回の県大会と1990年飯縄で行なわれた北信越大会に参加された。北信越大会開会式大座法師池畔での伝説の?演説や、傘に背広、綿のシャツでの同行といえば「ああそういえば」と思い出す方もいるだろう。自らも山登りをたしなむ強烈な部長であった。

その小林俊樹氏は何をか隠さん、私の高校時代3年間の担任であった。私の高校当時は小林姓の教師が二人いたこともあり、「こばしゅん」と呼び慣わしていた。その「こばしゅん」も退職後10年余、古稀を迎えた。ということで、教え子が集まって「こばしゅんの古稀を祝う会」・・・有り体に言えば、こばしゅんを出汁にして飲む会が先日開催された。現在の師はまさに悠々自適、折に触れ松本地方の2つの新聞に文を書いているから、目にしている方も多いだろう。たまたまというか、これにあわせてというか、それらの文や過去に書かれた文を集めた「山ときどきの心」という本を龍鳳書房から出版された。その出版記念会も兼ねての会となった。集まったのは教え子を中心に友人や同僚などおよそ130人。その中にはかわらばんの読者も何人かいたが、「こばしゅん山脈」とも呼ぶべき人のつながりにびっくり。

「こばしゅん」は国語の教師であったが、僕が教えられたのはむしろ生き方、生き様であり、まさに我が人生の師であった。若い頃より登山を愛し、千山万嶽の峰を極めた「山や」である師はロマンチシストでもあった。日本山岳会に所属し、槍ヶ岳開山の播隆や、北アルプスを世に広く知らしめたウェストンなどの研究者でもあり、多くの山へ誘われた。高校時代、僕はクラブこそバスケットであったが、夏休みといえばクラス登山が何よりの楽しみであった。上高地のベースキャンプを使い、一年の時は涸沢、二年の時は焼岳中尾峠へ。クラスメートが帰った後もべーキャンに残った僕は、数人の仲間や山岳部の先輩と西穂に登ったりしたものだ。そんな僕の山好きを見抜いた「こばしゅん」が、大学に合格した僕に勧めたのは、常念小屋でのバイトであった。今の僕は「こばしゅん」あってのことだ。

彼は、担任とかそういうことを越え、多くの弟子(あえて生徒とは呼ぶまい)を当時から一人前の人間として扱ってくれ、その人間性、可能性を見極め導いてくれた文字通り「名伯楽」であった。古稀を迎えた師は、今なお矍鑠としており、年齢など感じさせない怪気炎は相変わらずだった。退職間際に耳にした校長としての評判は、「灰汁の強さは(失礼?)相変わらずだが、生徒を思う気持ちは変わらない。個性派の校長」であった。今はこういう気骨のある校長がめっきり減ってしまった。寂しい限りである。

ところでその著「山ときどきの心」である。全部で5章からなるが、ことに前半の文体は硬質で格調が高い。「峠の先に」という第一章は「こばしゅん」を知っているが故にうーむとうなってしまった。後半は折々のことや山のことを綴った短編が編集されており、どこからでも気軽に読める。

その著「山ときどきの心」(定価2000円)もしご希望の向きは大西まで御連絡下さい。取り次ぎます。

はじめの一歩――中信安全登山学習交流会 参加11名で盛大に

前々号で紹介した標記会議が14日から15日にかけて、白馬高校で行なわれた。初めの一歩としては大成功だったのではないだろうか事務局下岡さんからは中信地区全高校に呼びかけたが、困ったことに通知が届かない学校もあったようだ。そんな中、現役山岳部顧問として下表のように松田大(大町)、下岡(大町北)、浮須(池田工)、赤羽(志学館)、大西英(志学館)、大西浩(木曽)の6名。現在は山岳部の顧問はしていない山岳関係者としては現専門委員長の小林(白馬)、僕の前の専門委員長の今井(穂高商)、中信新人戦の食材調達部長松田泰(白馬)の3名。中信以外からも、以前志学館にいた続木(上伊那農業)、河竹(皐月)の2人を加え、合計11人が参加し、中信地区の山岳部の諸課題について一晩膝を交えての徹底的な議論が交わされた。ちなみに河竹さんはCMCに所属している義務の先生だが、今年から中高交流で皐月に在籍しており、かわらばんを見て、私の所へ連絡して来て下さったし、続木さんは先週上伊那農業で行なわれた県教研の時に声をかけたら、「それはいいことですね」とすぐに参加をしてくれた。

当日は、私が過去の中信の年報から山岳部生徒の加入人数の推移を表にしたものと旅費に関する問題点を上げたものを資料として提出し、議論のとっかかりとした。会議は午後6時からじっくり時間をかけて行い、その熱気は懇親会にはいってもとどまるところを知らなかった。会議の内容については、紙面の都合で次号以後のかわらばんで紹介する。

会議の後、8時少し前からは、懇親会がはじまった。懇親会は浮須さん、下岡さん、大西が食当となり、例によって松田泰尚さん肝いりのキノコが十二分にはいったキムチ鍋にうどんを用意した。準備されたキノコは天然物のマイタケ、ブナシメジ、ムキタケ、ハナイグチなど。いい出汁が出て、酒も話も大いに弾んだ。

翌日は、高体連の北信越連絡協議会のために、小林、松田の両名は新潟の六日町へ、山岳協会の北信越5県連絡協議会のために浮須、大西の両名は信濃町黒姫へと行くことになっていたため、15日に行なわれた実技講習は午後までのフルでの参加者は下岡さんと塩尻志学館勢、河竹さん、そこに当日参加の大町北高校の生徒を交えたメンバーだった。この模様も次号以後で報告します。

第1回中信地区安全登山研究会学習交流会の参加者名簿(11名)

小林 國弘

松田 泰尚

松田  大

下岡 英樹

浮須 由実

今井 秀幸

赤羽 康定

大西 英樹

大西  浩

続木 宏英

河竹 康之

 

 

編集子のひとりごと

前号と前々号はおよそ一ヶ月間があきました。そのことについて、重田さんから次のような嬉しいメールをもらいました。「先月のことですが、岩高の高木先生が『最近、かわら版が届かないけれど、大西先生に変わったことがあったのですか?』と聞かれました。読者は待っているのですね。私も楽しみにしています。」・・・こういうメールをいただくと励みになります。ただ・・・私も人の子です・・・。(大西 記)