不定期刊行             90号  2004.4.14

中信高校山岳部かわらばん

   編集責任者 大西 浩

                      木曽高等学校定時制

新しい読者の皆様へ・・・年度当初にあたって編集子のごあいさつ

私が、「中信高校山岳部かわらばん」の名前で高校の山関係の顧問の先生方を中心に情報を発信しようと思ったのは、今から2年前の3月、生徒と御嶽山で山スキーを楽しんだときのことです。中信地区には「中信高校山岳部年報」(かつては中信高体連山岳部年報と言っていたが、わけありで改名を余儀なくされた・・・これについては別の機会に書きたい)という年一回発行される山岳部の活動のまとめの冊子があり、僕は自分が生徒を引率するときなどは随分参考にさせてもらったものでした。しかし、世は情報化時代、紙ベースの冊子は記録として残しながら、それを補完させるようなタイムリーな情報を発信することができないか?今の御嶽山の生の情報を伝えることができれば、それは年報とはまた違った意味で役に立つのではないかとことを思ったのです。そして、そこを基点に顧問や生徒の交流や情報交換ができれば、衰退の一途をたどっている高校山岳部の活動に一石を投じることができるのではないかと思ったのです。

そのときは、自分自身が「高校生に夢を」と賭けてきたカシタシ遠征も一区切りし、それまで7年間務めてきた中信高体連登山専門部の専門委員長も國さんこと小林國弘先生が引き受けてくださることになり、ちょっと自分にゆとりができ、これからは高校生たちと自分の山登りができるかなと考えはじめたところでした。下に挙げたのは、かわらばん発刊の思いを書いた第1号の「編集子のひとりごと」です。

7年間中信地区の登山専門部の委員長をさせていただきました。この間、少しでも高校山岳部の活性化に役立てばとの思いで、いろいろやって来ました。国体、インターハイ、海外登山。そんな中で、県内外の高校山岳部の様子、国体やクライミングに関する情報等については、多少なりとも蓄積ができました。また全国の高体連の仲間や山岳協会、山岳センターとのつながり、中国新疆や青海の登山協会などとの人脈もできました。そんなものを少しでも還元できればとの思いで、こんな情報を不定期で発信することを思いつきました。息切れしてすぐ途切れてしまうかもしれませんが、ゆくゆくは多くの顧問の先生や高校生からも情報をもらったりして、ぼつぼつと続けていきたいと思っています。

僕が、こんなことを考えて、知り合いの何人かにメールでかわらばんの第1号を送った矢先、長山協の理事長の唐木真澄氏から長山協事務局長を引き受けてくれないかとの話がありました。自分としては一山岳部の顧問として、生徒と楽しく登れることが僕の山登りの基本であり、状況としてようやくそんな環境になったところにやってきた、まさに青天の霹靂ともいうべきできごとでした。が、こんな私でもお役に立てることができればと、この2年間社会人の山岳会の方々と一緒に仕事をしてきました。先日、長山協のある理事から「高校生に夢を」を是非復活させてほしいと発破をかけられました。ありがたいことにその理事はそのためにはいくらでも協力してくれるというのです。4日に行われた長山協の総会の議案書にも若年層の育成ということが盛り込まれましたが、理事会や指導委員会など長山協の実際の議論の中でも、高校生を含めたジュニアの育成が今回ほど言われはじめたことはなかったように思います。我々高校の教員だけでは手詰まりな状況を、今後は長山協ともっと積極的に手を結んでいくことで新たな展開が見出せるような気もしています。

果たして、このかわらばんが、目論見通り県内山岳部の活性化に役立っているか否か?それははなはだ疑問ですが、現在では県内外で約100人以上の方々にお送りしています。そして発行以来丸2周年を経過し、すでに90号に達しました。今年度も始まりました。初めてお届けする方はご無礼をお許しください。今後こんなものいらない!という方は遠慮なくお申し出ください。そしてもし今後とも読んでいただける方は、今後ともよろしくお願いいたします。

編集子のひとりごと

今回の年度末年度当初の忙しさは半端じゃなかった。学校では、年度末の異動で教頭と教務主任が転勤する中、4年の担任が終わったばかりの僕が、柄にもなく教務主任に祭り上げられた。現在本校は教頭以外7人の教師のうち講師が3人という異常状態で、教諭は3人。そんな中で担任を4人出し、校務分掌も回していかねばならない。幸い講師の方々はいずれも素晴らしい方々で、一人の講師は担任を受けてくれ、もう一人は生活指導と生徒会の主任を兼務してくれている。僕もうかうかしていられない。

そんな状況の中、3月の末になって僕の所に飛び込んできたのは、高教組の定通部選出の執行委員をやってくれないかというものだった。今更校務分掌を変える余裕も、人的な裏付けもない。時間割も変えられない。だから、受けるとすれば、教務主任をし、執行委員会後も学校へ戻って授業をするしかない。そんなことをして果たして身体がもつのか。それ以上に、募集停止問題、勤務時間の問題、人事の問題など定通部をめぐるこのところの県の攻勢を考えれば、問題山積で僕などに務まるとも思えない。しかし、こちらも考えている猶予はない。高教組には今まであらゆる場面でおせわになっているし、この時期まで役選がずれ込んだ意味も鑑みる中で、職場の理解を得、立候補を決意したのは3月23日のこと。というわけで、今年は毎週火曜日には長野を往復し、執行委員会に参加し、終了後とんぼ返りで木曽まで向かい、学校へ帰って授業というハードな日程で動かねばならないことになった。

そんなことをしている間に時は過ぎ4月。新しく赴任した教頭は経ヶ岳登山道作りでともに笹刈りや橋作りをし、かつてはともに国体山岳競技で四国や山形の山の中をかけまわり、汗を流した川島さんだ。山では気心知れていても、不慣れな仕事。立場上相談することも多いが、この一週間は精神的にもかなり疲れた。

そして、その合間の、4月3日、4日の長山協の理事会ならびに総会の設定・・・とここまでは本当に息つく間がなかった。やれやれ、もう勘弁してくれ、と思っているところに、追い打ちをかけられた。長山協の事務局長をもう一期というものだ。とても無理だ。前述のように教務主任をしていて、高教組の執行委員である上に、定時制勤務。中信高体連登山専門部の専門委員、これ以上はとても無理・・・。学校もあけられない。何より・・・山に登れなくなる。しかし・・・「今期長山協は会長が替わり、その中で事務局体制をきちんと固める必要がある。」との要請であった。すべての部分において、私では力不足の面は否めないが、ま、忙しいときはきっと誰かが助けてくれるだろう。「最初から気負うことをせずにやればなんとかなる?いやいやそんな甘いもんじゃない!」心の中で葛藤をしながらの煩悶の末、仕方なく引き受けることにした。(大西 記)