不定期刊行            121号  2004.12.2

中信高校山岳部かわらばん

    編集責任者 大西 浩

               木曽高等学校定時制 

一歩前進「部活動引率業務に関しては

       課題として認識している」

高教組独自確定交渉、口頭メモで県教委が明言

去る11月29日に行われた高教組の県教委との確定交渉では最終の県教委のことばとして、口頭メモで「部活動の引率業務については課題として認識している。」との回答を引き出すことができた。

これは大きな進展だと思う。県当局が「課題として認識している」と明言したわけだから、このことが、議論の俎上にのったわけである。今までは、山岳部の危険手当の要求や旅費の問題については、けんもほろろの状態で、10月の回答交渉の段階では、回答書にはつれなく「できない」と記載されていた。それにもめげず、この間、登山部長の中谷校長先生には、現場の声を県に届けて頂いたり、高体連はじめ多くの方に力をいただきながら全国アンケートをまとめたり、現場の生の声をよせていただいたものをまとめたりなど、私なりにできる限りのことをしてきた。それら一連の取り組みにより、我々の訴えがまがりなりにも当局に届いたと解釈できる。

29日の交渉は、県庁議会棟404、405会議室において午後1時30分に始まり、終了は日をまたいだ30日の午前1時という長丁場であったが、その中で山岳部の訴えは4時25分頃から約30分に及んだ。

まず私が口火を切り、現場からの声ということで、池工の菊池さんと美須々の白沢さんが、引率の実情をそれぞれの立場から切々と訴えた。教育長、教育次長などはメモをとりながら、時には何事か小声で相談しながら、熱心に耳を傾けていた。その後、私が皆さんからいただいたアンケート結果を紹介し、それをもとにさらに実情を補足した。その上で星野さんに集めてもらった全国の実情アンケートにまとめと考察を加え、説明し、「危険手当の新設とテント泊規定を旅費規程の中に盛り込んでほしい」という2点の要求をした。話の中では新設の規定は難しいことと、旅費はあくまで実費支給ということであるとの回答で、その時点で具体的に踏み込んだ話にはならなかったが、一定こちらの話には納得した様子であり、その結果が冒頭あげた最終成果となったと思っている。

いずれにせよ、今回具体的にテント泊いくらと明示されたりしなかったことは、逆に言えば、今後その部分についてこちらも具体的な数値を示したりする中で、詰めていく余地を残せたという風に前向きにとらえたい。来年度以降なんとか風穴をあけるために、かわらばんの読者諸氏にもひきつづき一緒にがんばっていくことをお願いしたい。

晩秋の木曽路――鳥居峠(11/18)

11月の木曽高校定時制アウトドア部の活動は木曽路を藪原駅から奈良井宿まで歩いた。この区間は昨年の冬、木曽高全日の冬期雪上歩行訓練で使われ、春には県ヶ丘の歓迎山行などでも使われたそうで、そんな報告を今年度の中信高校山岳部年報の編集をしながら、原稿で目にしたり、話を聞いたりして、ぜひ定時でも行ってみたいと思っていたのだった。

古来、鳥居峠を挟んだこの区間は中山道の中でも難所であった。この区間のよいところは宿場を出ると、車の通る道とはほとんど断絶して純粋に峠ウォークを楽しめるところにある。実は私自身、林道を使って峠そのものに車で行ったことはあったが、この街道を歩くのは初めてのことだった。当日は、4年生の男子生徒3人と3年生の女子生徒1人、引率は顧問3人に加え、教頭の川島さんも飛び入りと豪華なメンバーとなった。藪原宿をすぎて急な坂道をしばらく登り詰め、消防署までで一休み。この先からいよいよ石畳の峠道である。生徒たちを先行させながら、やや遅い紅葉の道をのんびりと進む。しばらく行くと、カラ松の木をせわしなく登ったり降りたりしているリスの群れ。冬を前に忙しそうだ。

峠の近くには、丸山公園と呼ばれる公園があり、句碑が立っていた。中に芭蕉の句碑が二つ。 「木曾路の栃 うき世の人の土産かな」(天保13年/1842の建立) 「雲雀よりうへにやすらふ峠かな」 (享和元年/1801の建立)。ここの広場には木のぬくもりのする立派な避難小屋が建てられていたが、それを見るなり教頭の川島さんは、即座に「ここに生徒全員で来て焼き肉でもして、泊まれるような企画を考えたらすばらしいねぇ。大西さんどう思う?」全く同じことを考えていた僕もその案に大賛成。定時制の28人がここで一晩過ごせたらすばらしい体験ができそうだ。また楽しみが増えた。

峠の手前の一帯には栃の古木が多いが、中に一本大きなうろのあるものがあった。立て札には、そのうろに捨てられた児を、子宝に恵まれない村人が育てて幸福になったことから、この栃の実を煎じて飲むと子宝に恵まれると書かれていた。

そこからしばらく行ったところが鳥居峠。もう白く雪化粧をした御嶽山が遠望されたがここで記念写真を一枚。1197mのこの峠は、奈良井川(信濃川)と木曽川の分水嶺である。楢川方面に100mほど進んだ茶屋の跡に、丸山公園にあるのとほぼ同じ作りの避難小屋(休憩所)ができており、その脇には湧き水を引いてある。ここでゆっくりと時間をかけて昼食休憩。

ここからは眼下に奈良井宿を見下ろしながら下っていくが、道沿いの電線がやや興ざめだった。いくつかの木橋を渡り、落ち葉を踏みながら進んでいき、30分ほどで菊池 寛の『恩讐の彼方に』の舞台となった中の茶屋に到着。主人公市九郎が情婦の弓と住み着き、旅人を殺しては金品を奪ったのはこのあたりだという。市九郎は、ここで働いた悪事を悔い、やがて一念発起、「青の洞門」を彫りぬくことになる。江戸末期には、皇女和宮が降嫁のため歩んだ道でもあり、さらに昔には木曽義仲が平家討伐のために祈願した場所でもあった。こうして幾多の伝説を刻んできた峠道をのんびりと歩いた。奈良井宿を往復した後、再び宿場の南のはずれまで戻り、奈良井荘で入浴。沸かし湯ではあったが、今時200円とはお値打ち。実質4時間足らずのハイキングだったが、汗を流して夜の授業へと向かった。

編集子のひとりごと

明日の中信安全登山研究会は出席者が16名。盛り上がりそうなメンバーが集まった。もし参加を急遽決意された方がいましたら、ご連絡下さい。大歓迎です。(大西 記)