不定期刊行             123号  2004.12.25

中信高校山岳部かわらばん

     編集責任者 大西 浩

             木曽高等学校定時制 

大町高校の耐寒ビバーク訓練、焚き火体験

12月18日、19日松田さんに誘われて、大町高校の山岳部の耐寒ビバーク訓練に参加した。なんでもその一週間前に行った訓練は、参加者も少なかった上に、寒さもそれほどでなく、訓練にならなかったとの由。そこで再度企画したとのことであった。松田さんには中信安全登山研究会の折に、この話を聞いて、都合がつけば参加するので誘ってほしいと伝えてあった。

2時半に集合場所の仏崎に到着。生徒4名に顧問2人(松田、竹田)それに私の7人の今宵の宿は、高瀬川の川原。松田さんの「自分のことは自分で、すべて受益者負担の原則」の一声で、早速落葉松林の中に散らばって思い思いに薪拾いをはじめる。顧問は3人で、小一時間ほどでほぼ一晩分に足りそうな量を集めることができた。4時火を点けた。まだ薪集めをしている生徒をよそにこちらは臨戦態勢完了、まずはビールで乾杯だ。風もなく、穏やかな天気で、薪を集めたり切ったりしていると汗が出てくるほどの陽気で、ビールが美味い。次第に夕闇が迫ってくるが、生徒たちの方からはなかなか赤い炎は上がってこない。痺れをきらしたのか松田さんの指導が入る。やがて4人のそれぞれが自分の火をもった。大人組が、私の仕入れてきた木曽の「七笑のしぼり」ですっかり盛り上がったころ、夕食の準備が整った。

その夕食は豚ドンにワカメスープ。大町高校の食事事情については、センターの講習会で、また県大会でと、今までことあるたびに僕は苦言を呈してきた。なにしろここの顧問は、歴代夕食時は液体さえあればいいという方ばかりで、まったく食事指導には無頓着(失礼)なのだ。しかし、今回はお世辞抜きで、味も量も、そしてコストパフォーマンスも満足だった。ご馳走様。

焚き火、そこにはえもいわれぬ魅力がある。人は、燃えるものを見ているとかまいたくなるから不思議だ。そして火を囲むだけでそこには連帯感が生まれてくる。それぞれが思い思いに火の回りで、ときには饒舌になり、ときには無口になり、また焚き火奉行になったりと、それぞれの時間を過ごした。酔いも回りいつの間にかシュラフを引っ張り出して潜り込んだ。寒くない。12月も半ば過ぎだというのに、なんなんだこの暖かさは・・・。夜半過ぎ少しパラパラ来たが、寝ずの番をして火の番をしてくれた竹田さんのおかげで、僕と松田さんは熟睡。

耐寒訓練とは名ばかりで、耐寒を体感することはできなかった。しかし、生徒たちにとってはいい経験だったに違いない。詳しくは聞かなかったが、おそらく生徒はブルーシート一枚ずつを持たされ、あとは自分の持っている装備と焚き火で対応ということだったとお見受けしたが、原体験ともいうべき、こんなワイルドな体験は人を確実に強くする。松田さんが「山岳部生徒にとって夏には夏の、冬には冬の楽しみ方がある」と言っていたが、まさにその通りである。欲をいえば、もっと風が吹いて途中で雪でも降り出していたらもっともっと楽しかっただろうねぇ!そういう意味で企画者の松田さんは不満顔。今流行のギター侍じゃないけど「ザンネン!」といったところか・・・。

鍬ノ峰整備登山

かくして、予想以上にゆっくり眠れた私であった。翌19日は開拓者の苦労話を聞きながら鍬ノ峰へ登った。すでにかわらばんでも何回か紹介したが、この山の北尾根の登山道は鶴ならぬ顧問の一声「あの山を開拓しろ!」という至上命令が下り、結果大町高校山岳部によって3年前に開かれた。

大町市仏崎の観音寺の脇から尾根に取り付く。この入山口は、かつては岩登りのゲレンデとしてしばしば使われた「仏崎の岩場」への登り口でもある。鐘楼を過ぎ、急坂を登り詰めたところから赤タンをつけ始める。今回の登山は、冬道の標識付けが主たる目的である。左右が松林で止め山になっている広い尾根をしばらく進むと、「ゴジラの背」と名づけられた急坂が現れた。トラロープを頼りにあえぎあえぎ登る。

約50分登ると、通称「休憩場」と呼ばれている平坦な稜線に出た。ここで一本取った。一休みしたあと、しばらく行くと道は90度曲がって、北斜面の尾根となり雪が出てきた。しかし、それとてもこの時期としては異様な少なさ。この時期にこの程度というのはちょっと驚きである。しかし、この少ない雪が曲者、なんとも中途半端な量で歩きにくいことこの上ない。「下りは恐怖だ」といいながらの登りとなった。

道の両脇に石楠花が出始めると、開拓にまつわる松田さんの苦労話もヒートアップ。当時の顧問宮田さん(現県ヶ丘)や懐かしいOBの名前が出てきて聞いていても楽しい。今歩いているこの道は、今でこそ誰疑うことなき立派な道であるが、この道を切り開くことが容易なことでなかったことは容易に想像できる。曰く「ここの100mが大変だった」「ここは尾根の中心を外して逃げた」「ここは上からと下からの道が合わずクランクになった」など、開拓者にはそれぞれの場所に由来や思いがある。

鍬ノ峰は双耳峰なのだが、この登山道は北峰を通り、最高点である南峰1623mへと続いている。その北峰への登りで再び道は急になり、このところのトレーニング不足が応える。その北峰のやや下部で2度目の休憩。このあたりの石楠花は花芽をつけているのもかなりあり、来年の春は楽しめそうだ。来年は石楠花の咲くころにぜひ来よう。

北峰からは本峰までは、距離にして約1km。熊笹の道をいったん下るが、葉についている雪がズボンを濡らし、靴に入ってくる。さすがにこのあたりでカッパのズボンを穿いた。11時40分頂上到着。あいにく遠くはガスっていて眺望は利かなかった。以前松川村から登るルートから登ったことはあったが、今回初めてこのルートを開拓者とともに登ることができた。皆さんも一度いかがですか?開いた道を歩いてもらうこと・・・それこそ開拓者冥利につきるってもんです。ねっ、大さん。

編集子のひとりごと

というわけで、今年最後の山行は大町高校の諸君と愉快な体験をすることができた。大さんに感謝である。ところで、雪は、そして冬はどこへいってしまったのだろう。

数年前までは冬休みにはいってすぐの時期には、遠見尾根などで合宿する山岳部も多かったが、残念ながらここ数年そのようなクラブはめっきり減ってしまった。今年もそのようなところはなさそうだ。山岳部の活動は幅広いが、そんな中でこれからの冬の時期をどう過ごすか。顧問の力量アップも含め、このあたりは課題であろう。来年はそんなことを中信安全登山研究会の研究の主眼にしたらどうだろうか?(大西 記)