不定期刊行             125号  2005.1.16

中信高校山岳部かわらばん

     編集責任者 大西 浩

             木曽高等学校定時制 

ナマステ ヒマラヤ その1

1月5日から12日までネパールに行ってきた。主たる目的は長野県山岳協会とネパール山岳協会の間の友好協定の調印式への出席であったが、せっかく行くのなら少しは山を歩いてきたいと、最初の4日間でミニトレッキングを企画した。

1月5日12時30分に関西空港を離陸し、途中上海に立ち寄ったRA(ロイヤルネパール)412便は、現地時間の19時30分(日本時間22時45分)にカトマンズに降り立った。入国審査を通過するといきなりの客引きの運転手の群れ。「No thank you」と口にし、彼らをふりほどきながら、目で出口の先を見ると懐かしい顔が飛び込んできた。NMA(ネパール山岳協会)から出迎えてくれた旧知で事務局長のブミ氏とサンタ氏である。彼らは近寄ってくると、早速首に歓迎の「カタ」と生花で作った花輪をかけてくれた。のっけからの熱烈歓迎には恐縮。その足で現地エージェントのコスモトレックへ向かう。夜と言うこともあって、意外に町は静かな印象だ。コスモでは大津夫妻、スタッフの奥田さんらの出迎えを受けた。着いた早々ではあるが、調印式時の信毎への写真送付のメールテストやデジカメの接続、翌日以後の打ち合わせなどしなければならないことは多い。それらをすませた後、NMAのブミ氏がホテル近くの「はな」(日本人の戸張さんが経営)にて歓迎の宴を催してくれた。機内から飲み続け、食い続けでブロイラー状態の胃には少し厳しいが、話ははずんだ。翌日も早いということで適当に切り上げて、11時にホテルに戻った。時差もあるので、長い一日であった。

1月6日朝6時15分、カトマンズがどんな町かもわからないまだ真っ暗いうちに、ランドローバーにて出発。同行するのは、登攀クラブ安曇野所属の赤田幸久事務局次長と諏訪山岳会所属の西之園徹海外登山委員長の二人。ガイドはカイラ・タマン、アシスタントガイドとして来日経験もあるザイエ、ドゥンチェまでのドライバーの名前はラズーという。標高1400mのカトマンズの町から車は一気に標高を上げながら北上、119キロ先のドンチェを目指した。6:45カトマンズの町を抜け、標高2000mのカカニ峠を越え、ラニパウワという町をすぎると、いきなりはるかかなたに神々の座が姿を現した。西からアンナプルナ、ラムジュン、マナスル、ガネッシュ、ランタン。まだ遠いが、いずれも風格のある山たちだ。いきなりの7000、8000m峰との対面、そしてその迫力。私のヒマラヤとの初見は7:20のことだった。心は一気にスイッチオンだ。7:50パティシキロという町で朝食。ネパール料理との初対面。辛いもの大好きな僕に、ここのタルカリは刺激的。もうたまらない。見ていると次から次へと客がやってくるが、食べ終わると12、3歳の男の子がさっと皿を片づけて洗っている。給仕の娘もまだ20歳前。子どもたちがよく働くこと。

いったん2000mまで登った車は見渡す限りの段々畑の続く深い谷の中腹につけられた切り通しの道を大きく回りながら進んでいく。それにしても上から下まで開墾された段々畑は見事である。道は次第に高度を下げ、575mまで下り、9:00タディコーラを渡った。しばらくこのタディコーラ沿いに下ると赤茶けた大地が出てきて、チベット、また僕らの目的とするゴサインクンドを水源とするトリスリ川と出会った。トリスリはこの街道では一番の大きな町であり、ここでこの日3度目の通過チェックを受けた。ここには軍隊の大きなキャンプもあり、はじめてパスポートの提示を求められた。マオイストはこの街道上には少ないとのことではあったが、検問所はドンチェまでの間に6箇所設けられており、内3回はパスポートの提示を求められた。

ところで「トリスリ」という地名はかつて長山協で海外委員長をされた安倍泰夫先生から何度か聞いて耳にしていたなじみのある土地。安倍先生は今から約30年前、ランタンの未踏峰に登ったあと、トリスリからさらに奥のベトラワティという部落で幼い頃に母親と死に別れ父とも音信不通となった天涯孤独の少女と出会い、その彼女を養女として迎えたそうだ。それまではヒマラヤの山にしか興味がなかったが、その後ふもとの人々の生活にも目が向いていき、その後このトリスリの地でボランティア活動として植林をされるなど非常にすばらしい活動をされてこられた。(以上の話は1996年信毎刊「こころの山旅」に載っていますので興味のある方は参照してください)その安倍先生の植えられた木も今では大きくなっていることだろうと思いながら、赤土のトリスリを後にした。車窓からはバナナやパパイヤなどの実をつけた南国のフルーツも見られる。ネパール初体験の3人組にとっては、珍しいことだらけである。

いつか道は舗装道路からがたごと道となり、ひたすら高度を上げ始めた。10:20、5回目のチェックポストで車のエンジンがかからなくなった。しかしドライバーのラズー氏は全く動じない。押しがけでなんなく難を乗り越えた。外国での車のトラブルはしょっちゅう経験済みだが、どのドライバーも心得たものだ。しかし、このあともう一つトラブルが発生。今度は道路の崩落だった。11:20前方ではブルドーザーが道を修復中だった。ところが、ぼくらが通りかかったとき、後ろへさがったブルはなんとキャタピラが外れにっちもさっちも行かなくなってしまった。仕方がないので人海戦術。30分ほどかけて、石や土で穴をふさぎ、仮ごしらえでなんとか車幅程度の道をつくった。しかし、道はかなりの急坂、路肩は造りたて、一歩間違えば千尋の谷へまっさかさまだ。どう通過するか、今度はドライバーの運転技術の見せ所。さすがプロである。ここも顔色一つ変えずに一気に通解した。次第に目の前のランタンリルンが大きくなってきた。

6回目のチェックポストを通過して、銃を構えた軍人が目立つ町に入ると、そこが登山基地となるドゥンチェであった。ここドゥンチェは人口も3000人を擁し、高校もあるというこの地域の中心の町で、軍隊も多く駐屯している。ドゥンチェ到着は12:20。119キロを6時間かかったわけだから、平均時速は20キロだ。日本にいて地図を見ているときはわずかな距離だと高をくくっていたのだが、その場のことはやはり実際に来てみなければわからない。

普通はここで一泊というのがパターンだそうだが、時間のない我々は、少しでも先を稼ぎたいため、昼食をとった後、13:30分に山に向かって出発した。

編集子のひとりごと

しばらくの間、ネパールの旅におつきあいください。ポツリポツリと書いていきたいと思います。なお、写真はかわらばんのところではなくて、信高山岳会のホームページにアップしてもらおうかなと思っています。文章だけじゃ物足りないという方のために、近々その手はずを整えますので、お楽しみにお待ちください。(大西 記)