不定期刊行            149号  2005.9.9

中信高校山岳部かわらばん

     編集責任者 大西 浩

             木曽高等学校定時制

初秋の北アルプス後立山縦走での登山教室

超大型の台風14号に席巻されたこの数日であったが、台風の動きが遅かった分、その直前に山に入っていた私は救われた。2日から4日まで、長山協の登山教室の講師として、後立山の爺〜鹿島槍〜五龍〜唐松というコースを歩いてきた。連日ピーカンというわけには行かなかったが、それでも雨に全く降られることはなく、時折剱・立山を遠望しながら、秋の山を楽しんできた。最も今回は、登山教室ということだったので、その分の制約はあったが、指導をしながら自分としても楽しんできた。

この長山協登山教室は、一年を通じて、県内の様々なフィールドで開催しているが、単なるガイド登山ではなく、自立した登山者、自分の手と足で登れる登山者を育てるという目的の下、長山協の指導委員会が主管している。実施し始めてから今年で6年目になる。今回のコースは一般縦走路のうちでは難所の部類に入る八峰キレットがあるが、ここに行きたいからといって申し込んできても、一定のステップを踏んだ人でないと受講を許可していない。具体的には、このコースは教室の中では「初級の中」に位置づけられているが、これに参加するためにはいくつかの関門がある。たとえば、そのうちの一つに長野の「物見の岩」で行う登山教室に参加していることという条件がある。「物見の岩」は、ご存じの通り長野市では最もよく使われている自然の岩場である。一般の登山者はまず訪れることも、触れることもないであろうこういった場所での「岩登り」講習を義務づけているのは、ここで、岩場での身のこなしを事前に講習しておくことが、特に中高年層には有効であるとの認識に立っているからだ。そしてそれは掛け値なしに有効である。これは、一例であるが、中高年登山者が増える中、見ていてこちらがハラハラするような登山者も多い。登山教室では、こうした人も含め、世にいる圧倒的多数の未組織登山者への普及啓蒙活動として、安全登山を系統立てて指導している。

日本の山と海外の山の大きな違いは、日本の山が里山の延長で、誰でも気軽に入っていけるという点にある。それはある意味素晴らしいことなのだが、一歩間違えばリスクも抱えているということの裏返しでもある。何もなければ、運動靴でも行ってこられるのが、日本の山であるが、一般論として、登山の指導過程が、日本ではもっときちんと検証され、確立されてもいいのではないか。その意味で、この登山教室を中心的に進めているCMC所属の横山賢次郎氏を中心にした指導委員会の理論、技術は一つのスタンダードではある。それに共鳴してのリピーターの多いのもこの教室の特長でもある。

さて、今回は講師2人に受講生9人。最高齢は70歳の女性であった。ほかに60代の女性2人、50代の男女がそれぞれ3人ずつ。最高齢の女性も含め、参加者は岩場を含むこのコースを、花を楽しみながら、初日は柏原新道を登り、爺ヶ岳を経て冷池まで6時間。2日目は鹿島槍を越え、五龍の頂上を踏み白岳のコルまで9時間半。最終日は6時間かけて唐松経由で八方尾根を下ったが、いずれの日も無理なく安全に歩くことができた。もちろん登山教室であるから要所要所では指導しながら。山はもう秋の訪れを告げるかのように、トウヤクリンドウが咲き、ナナカマドの実が真っ赤に色づいていた。

最近読んだ本から2題

山の遭難−生きた、還った−セルフレスキューの秘訣(永田秀樹著東京新聞出版局刊)著者は自らも優れた登山者であり、前岳人編集長である。内容は、岳人の連載記事を再構成してまとめたものであるが、前半は「すぐそこにある事故」の事例とそこからいかにして脱出したかの具体例が12例掲載されている。いずれも生還した人が冷静に事故と向き合い、その原因を分析し、そこから生還できたのはなぜかを克明にかつ真摯に記述している。それだけに単なる体験談ではなくそこには示唆的、教訓的な内容が込められており、学ぶべき内容は多い。後半はやはり岳人の連載記事「山のセルフレスキュー」から18のポイントを抜き出したものだ。著者自身が述べているとおり、この章の目的は、「単にハウツーを解説するのではなく、山に登るための考え方の基本として、セルフレスキューをやさしく説いている」ところにある。岳人に連載されている時にも興味深く読んだ記事であるが、改めてまとめて読んでみると、見落としていた記事もあり、山で生き残ることができるかどうかということの境目がおぼろげながらわかったような気がした。

ナチュラリスト・田淵行雄の世界(東京都写真美術館企画監修 山と渓谷社刊)

亡き田淵行雄先生の生誕100年を記念して発行された写真集である。生前の田淵先生がタカネヒカゲの生態を明らかにするフィールドとして生涯206回も登ったのが常念だった。学生時代常念小屋でバイトをしているとき僕は田淵先生と一度お会いしたことがある。実はその時先生は奥様と二人、ヘリでいらっしゃったのだが、それが先生の206回目つまり最後の常念への来訪だったと常念小屋の社長の山田恒男氏から伺った。その時に田淵先生と一緒に撮った写真が今も僕の手元にある。その時はやはりもう亡くなった写真家山本和雄先生もちょうど常念にいらっしゃっており、お二人がならんで談笑している横に僕も並んでいる。写真集の中で、亡き父の思い出をご子息の穂高さんは「何回目かのハイキングで、私が手持ちぶさたで何気なく道端のネコジャラシを引き抜き、暫く遊んだ跡ポイと捨てたのを見て、『せっかく生きてきた植物の命を穂高の意味のない行為で絶ってはいけません。生きているままでも観察できます』」と回想している。この書は、安曇野に住み、山岳写真家としてばかりでなく、市井の研究者として、生物多様性の観点から、現代社会へ警鐘を鳴らし続けたナチュラリスト田淵先生の「この地史の落とし子たちに安らかな旅をつづけさせなければならない(高山蝶より)」という自然への優しい眼がとらえた写真とそこからこぼれてくる美しいことばが一体となった素晴らしい一冊だ。閑話休題、僕が高校一年の時、大竹しのぶがヒロインに起用されたNHKの連続ドラマ「水色の時」は先生をモデルにしたものだった。高校まで歩いて1分という至近距離に住んでいた僕はこれを見てから学校へ通ったものだ。今は昔の物語。

編集子のひとりごと

 

センターのクライミング講習会は大盛況のうちに終わったそうだ。たまたま唐松から下山して、時間がそんな時間だったので、帰りがけにセンターに顔を出すと、閉講式をしているところだった。所長曰く、「今回はいつも来る中信の学校は少なかったが、伊那、飯田、須坂などからも大勢来てくれてよかった」と。小中のちびっ子たちも含めて、ジュニアを育てていくことは我々の大きな課題だが少しずつ動き始めている。(大西 記)