不定期刊行            156号  2005.11.12

中信高校山岳部かわらばん

     編集責任者 大西 浩

             木曽高等学校定時制

第25回北信越高体連連絡協議会

11月5日、北信越の各県から34名が集って富山県の砺波市で標記会合が開催された。長野からの出席者は星野さん、小林さん、松田さんに私の4人であった。今年で25回目を迎えるこの会議、第10回目の会議から、翌年北信越大会を開催する県がその会場地の近隣で開催するのが通例になっている。

この会議、松田さんは第1回の会議にも出席されているということだが、断続的であるとはいえ、すでに4半世紀にわたって関わり続けてきたと言うことは、特筆すべきことである。かくいう私のこの会議へのデビューは第9回(1989・平成元)であった。この年をなぜ覚えているかと言えば、記念すべき第1回の北信越大会が新潟「妙高、火打山」で開催された年であり、翌年には長野が当番で第2回の北信越大会を「飯縄山」で開催することが決まっており、草創期の北信越大会について議論されたからである。私は当時丸子実業に在籍しており、東信の専門委員長であった伊沢さんの都合が悪いことによるピンチヒッターでの参加であった。そのころは私もまだ駆け出しで、ここで議論されていることについていけないような全くの新人だった。会場は石川の一里野温泉で、長野からは松田さん、中尾さん、高橋さんに私という参加体制ではなかったかと思う。とにかくこの時は、会議の内容はそっちのけで、今は亡き新潟の安野さんに「おい、長野の若いの、飲もう。」と飲まされたことだけがなぜか頭に残っている。松田さんの言によれば、北信越大会を開催するに当たっては、「第1回は新潟で引き受けるから、第2回は長野で!」と安野さんが中心になって実現にこぎ着けたとのこと。その第1回新潟大会の反省と第2回長野大会の計画検討ということだから、当然ながら議論は夜まで盛り上がったわけだ。その北信越大会も各県持ち回りで4巡目(今年が17回目)にはいっている。北信越の礎を作られてきた一人は間違いなく安野さんであろう。この場を借りて、安野さんの御霊に改めて心からご冥福をお祈りしたい。

さて、本題の会議では、まずインターハイ、北信越大会の報告と反省が行われ、金峰山で行われた北信越大会については各県から本当に素晴らしい大会であったと感謝をいただいた。思えば、天候にも恵まれ、百年に一度というシャクナゲにも恵まれた大会だった。北信越の他県では経験できないような花崗岩の山や川上村のレタス畑、落葉松の林も大会に一味添えたとの感想もいただいた。また、地元東信の岩村田、野沢北、野沢南、上田西をはじめ県内各校の選手の皆さんの歓迎ぶりも好評だった。改めて大会運営に協力してくださったすべての長野県内の皆さんにこのことを伝えたいと思う。インターハイについてはいくつかの問題点が出されたが、経験交流の大切さが改めて浮き彫りになったように思った。ついで、来年の北信越大会について富山県が担当で砺波市利賀の金剛堂山で行われることが報告された。国体についての若干の報告の後、全国高体連の常任委員会に向けて石川の北川さんよりインターハイの県別参加パーティ数の確認がされ、インターハイ時の専門委員長会議で懸案になっていた気象テストの導入について、北信越として意見はまとまらないものの特段反対意見もないということでまとめられた。

金剛堂山(来年度北信越大会会場地)下見行

北信越5県連絡協議会の2日目の11月6日(日)4人(星野、小林、松田、私)で金剛堂山(1638m)に登った。栃谷登山口から百瀬川を仮の橋で渡り、しばらく栃谷を遡上し、沢から離れるところで水を補給し、尾根にとりつく。その名の通りトチノキやサワグルミの黄葉の道をジグザグに登っていく。ときどき雪で根本の曲がった北陸特有の杉などを見ながら登っていくが、道は広く整備されており登りやすい。途中には1キロごとに里程標があるが、2キロの標柱の立つおよそ標高1220mの地点で一本とる。このあたりからところどころブナが目立ち始める。ブナ原生林という看板の立つところから一登りで1346mの前衛ピークに到着。目指す金剛堂山が見えた。

一端コルまで下ったあと、左右をネマガリダケに覆われた滑りやすい道が頂上まで続いている。最後はだんだん登りが緩やかになり、広い山頂に至った。頂上付近には高木はなく笹の林が広がって天気さえよければ眺望はさぞやと類推された。頂上には大きな方位版とその名のとおり立派な祠(金剛堂)があった。前線の通過か、朝から風の強い天候だったがこのころから少しずつ弱い雨が笹の葉を打つ。風はますます強くなってじっと立っていることができないほどである。気温も急激に下がってきた。天候さえよければ、この風衝草原をもう少し探勝したいところであったが、天候のこともあってすぐにここから下山した。なお、北信越大会ではこのさきの中金剛、奥金剛を経て縦走をする予定だそうである。下りは先頭の某氏が脇目もふらずに一気に下ったので、なんと1時間で下りきってしまった。登り初めて下るまで、山頂の休憩時間も含めてわずか3時間弱。登山口の標高から頂上までの標高差は800m強。4人ともなんという健脚!

コースタイム 栃谷登山口9:20 山頂11:10〜11:20 栃谷登山口12:15

編集子のひとりごと

北信越連絡協議会では、毎年会議の資料として北信越大会の開催基準や成績評価基準が資料に綴じ込まれ、再確認される。ここには「北信越大会が山を教育の場として、・・・交流を第一目的におき成績評価基準を定め」行うという発足当時(平成元年度)の精神が明確に記載されている。1998年に僕が専門委員長をしているときの新潟の会議で、前任の新潟県の専門委員長の藤田さんから「来年はよろしく」とこれらの文書に加え、各県への通知文書など資料を一式受け取った。その時受け取った資料は、これら貴重な資料がファイルされていたが、それらはどれも毎年毎年コピーにコピーを重ね、字はぼこぼこになって読みづらく、古いものは黄色く色がかわったわら半紙で、ようやく判読できるような状態であった。結局、通知文書などはその年の担当県の担当者が前年のものをもとに打ち直し、資料的なものはコピーで対応していた。当時はワープロこそ普及していたが、コンピュータを扱えるのは限られていた。僕自身もまだ始めたばかりではあったが、試行錯誤の末それらすべての文書を「ディジタル化」することを試みて各県にFD(当時はこれが最先端、CDもメールもまだまだ普及していなかった)で配布した。今でこそスキャナの性能も上がり、それらを読むソフトなども充実しており、当たり前のことであるが、当時はこの作業をするのにかなり苦戦した。北信越の会議に出て、これらの資料を目にするたびに、微力ながら北信越のこの会議に貢献できたかなとささやかな自負を感じている。(大西 記)