不定期刊行            164号  2006.1.31

中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

             木曽高等学校定時制

ところ変われば・・・愛媛県の山事情

愛媛県の登山部専門委員長の藤原先生から以前いただいたメールです。かわらばんバックナンバーを見ながらお読み下さい。ところ変われば、山事情も随分ちがうものです。

144号 「白馬岳」には通算3回登った。昭和62年・平成3年・平成17年(崩落事故前)。愛媛の縦走コース:途中が舗装された林道併走路となり、歩く人はほとんどいない。愛媛には、クライミング施設がない。国立大洲青年の家に、高さ8m幅10mの施設が外にある。平成元年の記録を見ると夏休み中に31日間山ごもりしている。(愛媛IH・北海道国体練習等)

145号 沢歩き・沢登りはここ数年やっていない。沢足袋は物置の奥にある?宇和島・滑床でやったとき、女子生徒が足を滑らせて深みにはまり、浮いてきた時の顔がよかった。夏の石鎚山合宿の最終日に面河渓谷でよく泳いだ。水温が異常に冷たいのが忘れられない。インターハイでは、昭和63年:大阪、平成9年:京都、平成14年:茨城でやった。

146号 インターハイ14回参加中、D隊への参加が7回目となり、来年いよいよ過半数を超えてしまう?緊急事故対応:役員の数を維持するのが難しくなってきているのが心配である。女子部員確保問題は深刻である。来年度4人揃う学校が何校あるだろうか?顧問にエール!!近畿は1つ・四国は一つずつ橋が架かっている。高知はハワイ方面を狙っている?

147号 愛媛の最高標高点は、石鎚山・天狗岳1982m(西日本最高峰)である。三角点の最高標高点は、石鎚山のすぐ隣にある二ノ森1929.2m(1等)である。三角点の最低標高点は、石鎚山のある西条市東禎瑞にある0.6m(4等:四国最低)である。ちなみに四国の三角点の最高標高点は、徳島県:剣山1954.7m(1等)である。

148号 「笠ヶ岳」には岐阜インターハイのとき、槍ヶ岳から双六小屋を経て笠ヶ岳まで歩いた。小屋泊まりで、夜は槍・穂高方面から続けて立山方面での雷ショーで楽しんだ。千葉IHの1週間前に、「白馬岳」大雪渓を登った。千葉IH閉会式の日:崩落事故!!四国では水不足が深刻:早明浦ダムの貯水量・台風の通過後0→100%:ウソみたい!

149号 爺ヶ岳〜鹿島槍ヶ岳〜五龍岳〜唐松岳のコースを歩いたことがない。行きたいと思っている。昭和62年、白馬〜鹿島槍ヶ岳を予定して入山したが、連日の雷雨停滞?で八方尾根を下った。現皇太子の隊列先方隊(ワインと食器)とすれ違い、本隊とは八方池で対岸を進む。高所恐怖症には、キレットは怖い。幸い不帰キレットはガスに包まれ、無事通過の思い出。

150号 北葛岳〜船窪岳〜不動岳〜南沢岳〜烏帽子岳のコースは歩いたことがない。昭和62年、ブナ縦尾根〜槍ヶ岳〜燕岳の縦走をした時、烏帽子小屋で休憩した。木曽の「御嶽山」にも登ったことがない。富士山もない。北岳も…穂高も……劔も………。インターハイ以外、橋が架かっても四国からなかなか脱出できない現実がそこにある。

151号 愛媛では、「顧問研修会」を開くことは難しい。まして(高体連主催)は不可能である。「冬の研修会は山スキー」おまえらは冬も遊びに行くのか=と愛媛では言われる事、まちがいなし!!山梨県:甲府西高の秋山教頭先生とは何度もインターハイで一緒に歩いた。宮崎では審査員に暴言!97年の山梨インターハイの前年:定時制に転勤、軟式野球部の監督を3年間務めた。[登山空白時代]

152号 「中信地区高校安全登山研究会」なんと羨ましい組織が存在しているのでしょうか。「顧問研修会」ですら、開催することは難しい。交通費・宿泊費及び日程調整が…。山頂で月・星・流星を見ながら不時露営:ツェルトの使い方を知らない顧問や生徒もいる。「焼き肉」といえば、山梨:韮崎高校の二宮先生を思い出す。インターハイ審査終了後の煙と臭い……。

153号 「新日本山岳史」発刊:それにしても山の出版物の多いこと。新刊マークがずらり……。他の競技にはほとんどない現象?本屋の一角に「登山・山岳・高山植物」特集コーナーが必ずある!『山やの物書き』もしくは『物書きの山や』が日本人には多いのでしょうか。「山岳部引率に関する問題」テントに寝るのだから宿泊費(実費)は0円:愛媛ではこれあたりまえ!!(愛媛県 藤原晃弘先生)

編集子のひとりごと

藤原先生は昨年の夏の千葉インターハイでご一緒した愛媛県の専門委員長だ。私自身は四国の山には、東四国国体(徳島で開催)に、監督が勝野さん、選手が浮須、福島、大西という教員4人組で参加(成績は聞かないで!選手といっても当時もう30過ぎていたんだから)し、高知IHのときは全国常任だったので審査員で見参し、高知国体には成年女子の監督で(このときは縦走で7位に入賞した)出場した。というわけで、大会がらみで3回訪れた。いずれも行きがけの駄賃で、山にも登らせてもらい、石鎚、剣山、三嶺といった四国山地の名峰には期せずして登らせてもらっている。感謝!!!

高知IHのときは、当時たった一人いた美須々の山岳部の生徒が、四万十川を源流から海まで歩きたいというので、連れて行った。二人で車で野宿した後、朝一番で石鎚に登り、その足で四万十川の源流まで生徒を送り、そこに生徒を置いて僕はIHの審査に向かった。IHの期間中テントをかついで海を目指して歩き続けた彼は、無事夢を実現し、IHの閉会式の会場に真っ黒に日焼けして現れた。なかなか骨のある生徒であった。

IHの時には、美しい笹の陰でマムシにおびえながら審査をした三嶺も印象深いが、一番の思い出は、ほとんど隔離された状態の公民館で採点したことである。その公民館は生徒のテント場から、林道をバスで30分ほど下ったところにあり、ほかの役員はそこからさらに小一時間下ったところ宿舎だったので、審査の4人だけがぽつんと残された。回りにはなんの明かりもなく真っ暗で、室内に冷蔵庫はなく、ビールも氷入りの発泡スチロールの箱に入っていた。食事も仕出し弁当で、冷房も網戸もなく、風呂もない蒸し風呂のようなそこで、審査員4人でグチをこぼしていたのも、今となれば懐かしい。ところが、その隔離されているとばかり思っていた公民館からわずか数百メートル下ったところに、実は立派な秘湯があると知ったのは、同じ山域で競技を行った高知国体の時だった。もう二度と来るまいと思ったこのときのテント場(矢筈峠)が高知国体のゴールだったのでそれと知れた。IHのときは、到着したときすでに真っ暗で何もわからなかった。そうと知っていれば・・・。失礼ながら、愛媛というより四国の話題。藤原さんと反対で信州人にとって四国は遠い。四国はどこも同じに映ってしまう。(大西 記)