不定期刊行            170号  2006.3.15

中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

             木曽高等学校定時制

勝野御大からの提言

前号で「ジュニア層の育成について諸氏のご意見を伺いたいところだ。」と書いた。それに対して、信高山岳会の創設者で高体連の大先輩の勝野順先生から提言をいただいた。「その今日的意義はますます大きくなっている」山岳部のあり方とそれを指導するシステム作り。システムとはいいながらそれは、最後は教師の情熱に帰趨する問題でもある。かつていくつもの「夢見たいな事」を実現してきた勝野先生の提言であるだけに「夢」とはいいながら説得力もあり、傾聴に値するご意見である。

教育の場においてこれまで「アウトドア」的なクラブが果たしてきた役割を改めて考えてみるとき、「これが高校教育に欠かせない」分野のクラブであるという意見には大いに与するものだ。いろいろな矛盾を抱えた子どもたちを前にして思うのは、「一晩山でテント生活をすること」がどんなに理屈を並び立てるより、またどんな教育書に書かれていることより、優れた実践であることはずっと感じてきていることだ。教育全般に関わる問題として我々山岳部顧問はもっともっと胸を張ってもいい。以下、勝野さんのメールを紹介します。

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


山梨・秋山氏のお説には大賛成ですが、事故の責任問題を考えると結構組織的な取組とシステム化(例えばNPO)が必要と思います。さもなくば職業(営業)として成り立つ方向でしょう。小生も考えましたが、個人的なスタンスではデメリットが大きすぎ、もうこれ以上の犠牲は嫌だと思って止めました。(これは数次の「冒険学校」からの教訓です)それに、シニアは衰えが激しいのです!

それはそれとして、高校の登山部には山登りの育成という意味もあるにはありますが、僕は高校教育に欠かせない分野のクラブとして山岳部・アウトドアクラブがあると考えてきました。野球部など大会指向クラブよりもはるかに存在意義があるのです(詳説はまたいつか)。その今日的意義はますます大きくなっていると思います。

しかし反面、山岳部を育成できるリーダー(OB)・教師の絶対数不足もつのるばかりでしょう。

もう一つの困難点は、生徒自体の変容です。山岳部を作っておけば入部してくるという時代はとうの昔に終わっていて、顧問教師がそれなりの展望をもちつつ巧妙に仕掛けなければ入らないという時代になってきているのでしょう。大西君も僕もそうだったと思いますが、授業や学級通信やクラス行事・家庭訪問をフルに活用して生徒をおびき込んだものでした。今やそれでも入ってこない時勢になっているのではないですか?

とまあ、絶望的なことをいいましたが、何の手もないわけではありません。一言で言ってしまえば、教師の再教育をとことんやるシステムつくりです。具体的にいえば信高山岳会(みたいな会)・高体連・高教組・山協社会人山岳会を横に繋いだ「アウトドア担当青年教師育成チーム」を4地域に最低一つずつくらいは作ることが必須条件でしょう。以前から夢見たいな事を考えてきましたのですが、やはり夢でしょうな・・・

風雪の爺ヶ岳東尾根

18日から21日まで、長山協の登山教室の講師を頼まれたので、爺ヶ岳東尾根に行ってきた。この飛び石連休は、山は大荒れで、阿弥陀でも遭難があった。我々が登った爺でも18日午後から次第に天候が悪化し、18日夜から本格的に雪が降り出し、19日は時折薄日は射すものの終日雪が降っており、沈殿を余儀なくされた。低気圧が抜けた夜に入ってからは、冬型が強まり猛烈な風が吹き出し、気温もかなり下がり、テントは一晩中バタバタと煽られていた。標高1850m付近のテン場からは、鹿島槍スキー場のナイターの明かりが緑と黄色に光ってみえ、視界はあったが、結局一晩中殆ど寝ることはできなかった。

20日午前6時、雪の勢いは治ったものの、風は相変わらず相当に強い。それでも行けるところまでと出発する。メンバーは受講生が7名に講師の横山賢次郎さんと私の9名。私以外のメンバーの殆どは1月にも同ルートに挑戦しておりそのリベンジの意味もあって、モチベーションは高い。しばらくはワカンをつけて新雪のラッセル。吹き付ける風に耐風姿勢をとりながら、ジリジリと進む。2000mピークでワカンをアイゼンに、ストックをピッケルに変えた。その先にはテントが二張り、雪にうもれていた。稜線上の風はますます強くなり、遅々として進まない。もう少し進むと単独行者がテントを撤収していた。風が息をつくと、視界も開け、何となく進めそうな気もしてくるが、恐らくこの強い冬型では登れば登るほど、条件が悪くなるのは目に見えている。また回復も期待できそうになかった。もともと「登山教室」であり、登らせるのが目的の「ガイド登山」ではない。だからといって、端から登れないのが分かっていながら、訓練と称して行けるところまで行くというのも、気勢が削がれる話である。

そんな状況を総合的に判断して8時35分、撤退を決定し、テント場まで下った。標高の下がったテント場周辺は風よけにもなっているので、少しはましである。そこで、雪訓と相成った。下界は日が当たっているが、冬の北アルプスには雪雲がかかり、典型的な冬型の状況は終日変わらなかった。冒頭述べたように、下山後この日の天候が原因で谷川や八ヶ岳で遭難があったことを知り、状況判断に誤りがなかったことを理解した。結局、20日は一日訓練に費やし、その晩もう一泊し、21日無事下山した。

編集子のひとりごと

爺から戻った翌22日、御岳で木曽高アウトドア部の山スキー山行を実施した。生徒は一年生のT君。顧問は今井さんに私、そのほかゲストとして参加したのが3月5日に乗鞍に同行した校用技師の横川さんと彼の友人の水野さんという、生徒1人に大人4人というメンバー。横川さんも乗鞍の時はスノーシューとボードだったので、今回は僕以外の4人は、「山スキー初体験」だ。2900mあたりまで登ったが、表面がカリカリに凍っており、シール登高が厳しい状態、靴は私以外はスキー靴だったので、頂上は諦めた。しかし、目的は登頂ではなく、山スキーの世界を体験すること。登りも最初はうまくいかず、無理な力を使っていた4人だが、次第にスキーを滑らせる技術を習得、下りではアイスバーン、新雪、カール状の大斜面、樹林帯と様々なシチュエーションの現れる新しい世界を悪戦苦闘しながらも満喫。帰ってきて、みんなが「世界が広がった」「貴重な体験ができた」などと喜んでくれた。めでたし、めでたし・・・。(大西 記)