不定期刊行            178号  2006.6.6

中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

             木曽高等学校定時制

県大会・・・今年のドラマ

先週後半、菅平高原、根子岳、四阿山を舞台に行われた登山の県大会は好天にも恵まれた。しかし一筋縄ではいかないのが、山でもある。今年もまたドラマがあった。

私は、根子岳の山頂直下で、審査をしていたのだが、全選手が通過した後、相棒の下岡さんとお茶を沸かして飲んで、一段落。天気もいいし、時間的な余裕もあったので、事前に打ち合わせてあったとおり、同じように自分の持ち場が終了した浮須さんの到着を待って、3人でもう一つの山である四阿山に登ってから下山しようなどと目論んでいるところへ、緊急無線が入った。四阿山の直下で、I高校の生徒が一人体調不調で動けなくなったというのである。

既に審査の役割を終えており、身体に余裕がある私たち3名に、「そちらのサポート体制に回ってほしい」との依頼が本部から伝えられた。急遽現場に向かうと、運営の高橋さんが介抱しており、生徒はあおらあおらした感じで、横になっていた。熱はないものの、かなり顔色が悪く、受け答えも力がない。横になっていたためか、脈はそれほど高くないが、かなり衰弱していて歩行もままならない状態だった。

本人は一年生で、テント生活はもちろん、2000m以上の山に登るのは初体験とのことだった。朝出発時には特に体調も悪くなかったというが、根子岳を登り、この四阿山の最後の登りで急激に調子が悪くなったという。まず昨日以来の緊張と、睡眠不足、疲労が考えられた。さらに僕の頭に直観的にひらめいたのは、これは「高山病」ではないかという思いだった。

いずれにしろ、下山させないことには対応はできないが、シチュエーションは通常の登山とは違う「大会」である。大会はメンバー4人が一体で行動しなければならず、一人でも不調があればその時点でリタイアとなる。他のメンバー3人は競技の続行を望んでいるが、人命が第一である。このまま強制的に中止させた方がよいかどうか?悩むところではあったが、ここから先は下るだけでもあったので、体調の悪いA君本人、リーダーのB君とも相談して、体調がこれ以上悪化したり、状況的に厳しくなったら無理はせず申し出ることを伝え、荷物を分散して競技は続行、自力下山をさせることにした。

審査から浮須(池工)、下岡(大町北)、福島(須坂園芸)、酒井(皐月)、僕、運営から久根(高遠)という体制で大会役員がサポートにつき、いつでも救護できる体制をとりながらの下山となった。状況によっては、これは背負わなければいけないかなぁなどとも考えながら、生徒たちの後ろをついていく。A君は、顔色も悪く、むかつきがあり、脈泊も100を越えた。50m歩いては立ち止まり、座り込んでしまう。所々雪もあり、足場が悪いところではかなり難儀をし、標高はなかなか下がらない。2200mくらいまで下ったところで、リーダーのB君が一つの決断をした。背負って下りるというのである。3年生のこのリーダーは身体も大柄で、ここまでもA君の荷物の殆どと自分の荷物を下ろしてきていたのだった。サポートに回った浮須さんと僕とで、ザックを使った背負い方を教えた。暫く進んでは休み、休んでは進み、水分を十分に摂らせながら、2100m付近まで下った。このままではB君はじめ、他の生徒も心配だ。背負われたA君は相変わらずではあるが、しかし、少し顔色はよくなってきたようでもあった。

横になって休んでいるA君に、自力歩行が可能かどうか確認するとゆっくりなら下れるかも知れないという。そこで、再び歩かせることにし、少しずつ下った。大会でお願いしてあった養護の先生が1900m付近まで登って来てくれた。養護教諭に出会ったという安心感もあったのだろう、この時点では、かなり回復が進み、受け答えもはっきりしてきて、養護の先生の判断もこのまま競技続行してもいいだろうとのことだった。

下るにつれ、急速に回復し、的岩付近(1770m)では空身ながらほぼ通常の速度で歩けるまでになった。1600m付近まで下りるとほぼ正常の状態に戻り、最後の林道では自らザックも背負えるまでに回復した。やはり高山病だったのだと思った。

四阿山からの下りでの支え合いながらの下山、リーダーの責任感、支えてもらったA君とチームメイトの2人、それぞれに学ぶべきものの多い登山だったと思う。山では色々のことが問われる。今回チームとしてのI高校の支え合いは、今後も大会のたびに語りぐさとなるドラマであった。

県大会に参加する高校生の数を見て思う

今年の県大会の出場校は、今回は正規チームが男子11チーム44名、女子が2チーム8名、オブザーバーチームが男子15校45名、女子4校10名で、生徒数の合計は男子89名、女子18名だった。かろうじて100名を保った。

僕が専門委員長になった1996年には200名という数字がかなり深刻に議論され、この数の参加者を確保することが、話題となっていたことを記憶している。手元に資料がないので、正確なことは言えないが、そのときの議論で「10年前までは、400名いたのに」と、古くから(失礼)の先生に言われたのを覚えている。僕は最初から山岳部顧問だったわけではないので、高体連デビューはそれほど古くはなく、1989年の湯ノ丸での大会だが、あのときのテント場の賑わいは確かに今とは比べものにならないくらいだったように記憶している。そして、あのころは、「長野県高校生訪中登山交流会」が始まったばかり(1988年に第1回隊を派遣)で、閉会式ではそのPRも行われて、顧問も生徒もまだまだ元気だった。そして、確かに「長野県高校生訪中登山交流会」は、高校山岳の世界の活性化の一翼を担っており、僕自身もこれにより大きく育ててもらったように思う。これが、高校山岳部の最後の花だったのか?

今、僕は定時制というところに身をおいて、不登校を経験した生徒たちとともに学ぶ中で、「山」や「自然」こそが彼らの新しい世界を切り開いていく何よりの切り口であることを身をもって感じている。そして、これは、すべての若者に通用するものである。高校生の間に新たな展開として浸透しつつある、クライミングなどもその大きな可能性をもっているように思う。

今手元のプログラムを見ると1999年に150名を割っている。そして、結果的にここ10年でジリジリと数を減らしながら、100名の攻防が話題となるまでになってしまったわけだ。この100という数をなんとか底にしてこれ以上の減少を食い止めたい。10年後50の攻防などということが、真剣に議論されないように今こそ踏ん張り時であるように思う。このあたりについては、正確な資料で、推移を確かめた上で、山岳部の活性化に向けて何ができるのか、改めてみなさんに問いかけ一緒に考えてみたい。

編集子のひとりごと

県大会の顧問交流会の場で、前号で書いたボルダリング壁について話したところ、反響があった。前号では、先着と書いたが、普及や顧問の体制等を考えたとき、将来設計も必要かと思う。そこで、前言を翻して申し訳ないのだが、「希望がでそろったところで調整させていただくような形をとらせてもらう」とします。ご了承下さい。(大西 記)