不定期刊行            179号  2006.6.29

中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

             木曽高等学校定時制

モレーヌ魂「戸隠山塊グループ・ド・モレーヌの足跡」

「山岳会・グループ・ド・モレーヌ」が創立50周年を迎え、先週の日曜日に記念式典と祝賀会が行われた。「モレーヌ」とか「GDM」といえば、長野県には知らぬ人のない、県内はもちろん日本の山岳界を常に引っ張ってきた山岳会である。その式典には県内外から多くの岳人が集い、旧交を温めることとなった。懐かしい顔がズラリと並んだ祝賀会はまさに長山協の歴史を語るものでもあった。

高校の山岳部の顧問をしているただの山好きにすぎない僕にとって、社会人山岳会であるモレーヌのメンバーから学んだものは多い。海外遠征、長山協での仕事、合宿など多くの方と随分親しくお付き合いをさせていただく中で、勉強をさせてもらってきたし、アリューシャンやカシタシなど海外遠征をともに行うことで、同じ夢を追ってきた仲間もいる。式典に先だってこの50年の中で、惜しくも亡くなってしまった仲間への黙祷を捧げたが、僕にとってもともにアリューシャンへ行った故吉沢一郎氏と武井利彰氏の死はかえすがえすも残念な思い出だ。改めて合掌。

モレーヌでは、この50年を大河の流れにたとえ、記念のプランについても、単なる記念のためだけのプランではなく、流れを加速し、水量を増すものでなければならないとのコンセプトで「一夜山」への記念登山やホテル信濃路での「写真展」、これから行う四川省「ガンガ」峰への海外登山などさまざまなプランが現在進行形で行われている。

そんな多くの企画の中で、まさにモレーヌだからこそなしえたという面目躍如たる企画として、50週年記念誌「戸隠山塊 グループ・ド・モレーヌの足跡」の発刊を挙げたい。「第何十番目の穂高や滝谷の登攀者となるより、第一人者として戸隠や頚城の沢や未踏の稜を登ることこそ、モレーヌのパイオニア精神であり、モレーヌのアルピニズムである」として、1965年から108にも及ぶ戸隠・頚城・海谷のバリエーションルートを開拓してきた一部始終が語られている。

記念式典への出席者に一冊ずつ配られたそれは、装丁は地味なもので、鮮やかな写真に飾られたものでもない。しかし、全234ページにも及ぶその中身は、すべてが「戸隠の登攀」記録に費やされ、「戸隠山塊」の地域研究という名に恥じないボリュームのある登攀記録の集大成である。まだ、半分くらいしか読んでいないが、戸隠をホームゲレンデにしてきた山岳会ならではのすばらしい記録だと感じ入りながら、懐かしい先輩たちの辿ってきた岩や雪の感触を文章で反芻している。

この記念誌の持つ意味については、今後多くの岳人に語り継がれていくことになろう。モレーヌの50年に乾杯、そして未来にもまた乾杯・・・。

「傘寿」の登山のお手伝い

高校時代の担任K先生の誘いで、松本市の「傘山(かさやま)」という極めてマイナーな山に登ってきた。合併前の「四賀村」地籍にあるこの1100mほどの山に登ろうというのは、「傘山」というその名前にある。

そもそも今回の登山の発案者は、東京在住の紀行文作家で、元雑誌「旅」の編集長の岡田喜秋(注参照)さん。最近の岡田さんの随想にこんな一文がある。「今年は二〇〇六年。この数字と同じ高さの山がある。私が信州松本の旧制高校時代に登った茶臼山である。・・・西暦と同じ数字の高さの山に興味を抱いて、その年に合わせて登り始めたのは、1963年からで(筆者注:この年は雨飾と谷川に登ったそうだ)・・・、雨飾をマークして十年後の1973年には、同じ標高の武石峰に登った。美ヶ原の北にあり、一等三角点がある。初夏だったので、アルプスを遠望しながら、保福寺峠まで縦走した。この時、保福寺という集落の北に傘山があるのを記憶にとどめた。今年になって、この山を思い出したのは、私が八十歳の「傘寿」を迎えたからである。この山は1125mなので、西暦とは関係ないが、名にあやかって長寿祈願をしたい。・・・」(交通新聞2006.04.25)たまたま、旧師とこの岡田さんが旧知の仲であったことから、僕にも(サポート要員として?)声がかかった。

標高こそそれほどでもないが、麓から見るとまさに「傘」の形をしたこの山には、それなりの風格もある。しかし、メジャーな山ではないので、一般に言われる登山道は整備されていない。頂上直下まで続く林道もあるのだが、それを使ったのでは登山の意味もない。ただ山の西には送電線が通っているため、その直下には電力会社の保守管理のための道が造られている。そこで我々は途中まではその道を使って、登ろうと試みた。登り初めて約1時間30分は、この保守管理道を進んだので、道もはっきりしており、まあまあ快適だった。やがて、地図を頼りに、送電線の保守管理道を外れ、頂上を目指す。若い頃、旧制松本高校山岳部に籍を置いたとはいえ、この道なき道は齢80の老人には辛そうである。登り始めは足取りも軽く、しっかりしていた岡田さんだが、さすがに足場がきちんとしていない場所では、かなりゆっくりとした動きである。時には四つんばいになるような急坂を、滑り落ちないよう、じっくり、ゆっくり歩を進める。しかし、昔とった杵柄か、少し足取りがふらついてはいるものの、危険箇所では確実に足場を切って歩を進めている。

急斜面をジグザグを切りながら、この悪路をおよそ20分の悪戦苦闘の結果、なんとか頂上稜線にたどり着いた。そして、そこから5分程度登ると、三等三角点の頂上があった。頂上は決して眺望が開けた場所ではなかったが、宿願を果たした岡田翁の感動したのはいうまでもない。そして、サポートした我々にとってもほっとした一瞬だった。サポートした我々と書いたが、実は同行した我が担任とて、すでに72歳のご老体、それに加えて中高年登山者が今二人。しかし、いずれも、元気な年寄りである。下りもやや難儀する場面があったが、特にサポートをする場面もなく、なんとか無事に下りきることができた。

今や、平均年齢が約80歳。退職後の生き方が問われる時代である。30数年後、僕がもし生きていたとして、傘寿の僕もこの「傘山」に登ることができるだろうか?

注)岡田喜秋:紀行作家。大正15年東京生まれ。旧制松本高校から東北大学経済学部卒。卒業期に発表した紀行文が河上徹太郎に認められて以来、風土人物観察をとりいれた独特の紀行文作家として活躍。1959年から71年まで月刊「旅」編集長

編集子のひとりごと

高校改革プランに振り回され、山登りからもかわらばんからも遠ざかっております。統合委員なので、毎週会議にかり出され、ストレスばかりがたまる日々。(大西 記)