不定期刊行            187号  2006.8.26

中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

不思議の国チベット その4 新旧のラサ名所を巡る

今年、7月、青海省とチベットを結ぶ青蔵鉄道が営業運転を始めた。北京からの所要時間は48時間、新たに開通したゴルムドーラサ間は12時間ということである。登山学校見学後少し時間ができ、その新しくできた新駅を見たかったので、次仁に「駅まで連れて行ってくれないか?」とリクエストした。駅はラサの町から15キロくらい離れた場所にある。近いうちにラサ河に新しい橋が完成すれば、一気にその距離も縮まるが、今は少しく大回りをして行かなくてはならない。そうとは知らず気楽に頼んだ僕の依頼に次仁は快く答えてくれた。ラサ河の対岸に渡ると、丘の上にポタラ宮をいただいたラサの町が遠望された。その町の中心部からおよそ20分、あたりには何もないところに「駅」だけが建っていた。白いチベット風の建築を模したそれは、ただただ巨大であった。今は日に数本しかない列車の到着を待つバスターミナルには、列車の到着時間ではない今の時間帯にはバスの「バ」の字もない。残念ながら列車の出発及び到着時間以外は、中には入れないそうで、入り口は服務員によって厳重にガードされていた。かつて「西寧〜西安」間「ウルムチ〜柳園(敦煌)」間を列車で旅したこともあるが、飛行機の旅とは一味も二味も違った魅力がある。とりわけ永久凍土地帯を貫き、5000mの崑崙山口を越え、途中に観光駅をいくつも擁したこの青蔵鉄道は、いつか乗ってみたい路線である。しかし、開通したばかりの今は、切符を取るのも大変な状況のようである。

駅から戻って、市内の繁華街の「バルコル」を散策し、軽く昼食をとった後、午後はいよいよラサ観光のメインである「ポタラ宮」へと向かった。ポタラ宮はラサ市内のどこからでも目につく高台にあって、その紅と白の建物は見る者を放っては置かない。現在は中国国内からの観光者も増え、入場制限をしなければならないほどの込みようで、見学するためには、前日までに予約をしておく必要がある。また見学時間も一時間のみという制限がある上に、入場の際にはボディチェックも行われ、ライターなどは没収されてしまう。ラサ市内の丘を利用して作られたそれは、13階建ての建物に相当するので、空気の薄いここでは登るのにも一苦労だ。建物は中央部分の紅宮とそれからウイングのように広がった白宮とからなっているが、我々はダライラマが実際に生活していたという白宮から入場した。宮殿全体には1000以上の部屋があるが、見学場所は限られているので、まるで迷路の中をさまよっているかのようだ。ダライラマの居室や謁見場、会議場などを巡り、急な階段を登ると、いつしか紅宮にはいっていた。こちらには歴代ダライラマの霊塔が立ち並ぶが、この宮殿の拡張に力を発揮し、政治的にも宗教的にも実権を握ったとされる5世ダライラマのそれは特に大きい。政務を執る場所であった白宮に対し、紅宮は宗教的なことを行う場所であったとのことで、有名な金銅製の立体曼荼羅や諸仏、教典などが数多く安置されていた。

ポタラ宮は、1959年に、主であるダライラマ14世がインドへ亡命した後は、中国当局によってその宗教的意味も政治的意味も大きく変貌させられてはいるが、今なおここがチベット仏教における聖地であるのは紛れもない事実である。この壮大な仏教の殿堂を完成させたのは、宗教の為せる力か、それとも権力の為せる力か、はたまたその両者が為すからなのか、いずれにせよポタラ宮は圧倒的な存在感を持って迫ってきた。

夕食は、登山学校を主宰している尼瑪次仁がもてなしてくれ、彼の学校のスタッフとともに食卓を囲んだ。毎晩毎晩歓迎され、恐縮しきりである。昨日は調子の出なかった息子も今日は回復して一安心、終日行動を共にすることができた。明日はいよいよ市内を脱出して、出発前から期待していた山の視察に出かけられる。

全国高校総体第50回記念登山大会・・・D隊参加印象記

20日から奈良県で開催されていたインターハイ登山大会に参加してきた。会場は、奈良県の大峯、大台ヶ原山系。本県からは、男子大町、松本県ヶ丘、女子野沢南が出場し、いずれも健闘したが、結果として全国の厚い壁を実感させられることとなった。私自身は昨年に引き続き、D隊(総監督隊)へ参加させていただいた。大会は、3日目に発生した事故(今の段階で事故の詳細を述べるのは憶測による物言いも加えざるを得ないので避ける)のため、一部大会日程が変更されるというアクシデントがあったが、それが逆に登山大会における「D隊の存在意義」を浮き彫りにし、さらにまたいろいろな意味で登山大会や安全登山を考える機会にもなった。

僕の参加したD隊について、今回は3つの観点からその存在意義を感じることができた。その第1は「D隊シンポジウム」である。かつてのD隊は泥酔隊だなどと陰口もたたかれ、その存在意義も疑問視されていた。僕が全国常任をしていた時に、事務局長をされていた静岡の金子先生などはその点を随分気に掛けておられ、シンポジウムを成功させることで、それらの声を払拭しようと腐心しておられたことを記憶している。今回のシンポジウムはいくつかの討議の柱が立てられていたが、第1の柱である「ヒヤリハット」体験の交流に大部分の時間が費やされた。これは非常に内容のあるものであり、これだけでもD隊に参加した意味はあったと感じた。この中身は整理されて次年度の登山部報に掲載される。いずれにせよ、年に一度全国の経験豊富な専門委員長たちから出される報告や提起は、山登りの「知恵」の蓄積の上では貴重である。第2は監督にトラブルが発生した際の代理監督としての存在意義である。今回の大会では先に述べたように大会3日目に某県監督が道迷いで遭難するという事故が発生し、当該チームに監督不在の状態が生まれた。この状況に対応できたのはひとえに総監督がいたからである。生徒への対応、当該県、高校への連絡の部分で総監督の存在は必要不可欠である。今までの大会では何もなかったので、こういったことが問われることがなかった。それ故D隊不要論が出て来もしたのだが、これはむしろ幸運であり、予期せぬことがおこりうる山というフィールドでの競技において、危急時にこそ総監督が必要であることを改めて、知らしめさせられた。そして第3は、全国の専門委員長と山行動を共にする中で、全国の高校登山の動向をつかめることである。こんな機会はこの大会以外にはあり得ない。

編集子のひとりごと

山では予期せぬことが起こる。今回の高校総体で起こった事故についていえば起こる必然はあったように思う。全国的にどんな報道がされているかはまだ確認していないが、こういったことへの対応として「臭いものに蓋」的な対応をするのではなく、全国高体連としてはきちんと総括しておかねばならないと思う。対応を待ちたい。(大西 記)