不定期刊行            193号  2006.9.8

中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

不思議の国チベット その11 ラサから一日で帰国

9日間の旅もいよいよ最終日になってしまった。「昨日の轍は踏まない」ということで、張秘書長が離陸2時間半前に当たる8:00に迎えに来た。ラサの空は、最後の日までどこまでも青かった。都合6度目となる中尼公路を、今日は順調に進み9:00には空港に到着、離陸一時間前の9:20には、搭乗手続きがすべて完了した。まずは一安心だ。あとは定刻に西安についてくれさえすれば、何とかなるはずだ。今日は、中華航空の真新しい機材である。飛行機に乗り込んで驚いた。昨日、急遽確保した座席はなんと「ビジネスクラス」。座席番号が1、2だったので、これはと思ってはいたのだが・・・。窓が二つ占有できて足は伸ばせる上に、本来三席分の席に二席を配置、横幅もゆとりがある。「やっと我々に相応の!対応になった」とは柳澤さんの言(笑い)。以前、カシタシ主峰の偵察時の帰路にも、西安空港で松南高校の某氏の搭乗券紛失騒動というトラブルがあって、結果ダブルブッキングが生じ、あとから乗り込んだ我々には、あの時もビジネスクラスが割り当てられたのだった。教訓!飛行機のトラブルは時として、利益をもたらすこともある。

座っている席が変わっただけなのに、待遇まで変わるから不思議なものだ。食前の飲み物も、いちいち客室乗務員が御用聞きに来て、いったん下がってから改めて提供される。機内食は、陶器の食器にステンレスのナイフとフォーク(昔はみんなそうで、こっそり持ち帰ったものだが・・・)。食事が終わったころを見計らって、デザートも別立てで出される。「だから、どうなの?」と言えばそれまでだが、西安までの2時間半、少しリッチな気分で、窓下の山々を眺めながらの空中散歩を楽しんだ。

西安空港には、少し遅れて13:00に到着した。「先生一体何があったの?」と、郝さんが、奥さんと娘さんを伴って迎えに出てくれていた。今日は非番であるとのことで、全くのプライベートな立場で、僕らの世話をしに出てきてくれたのである。「西安観光ができなかったのは、残念でしたね。昨日はあわててホテルのキャンセルをしました。時間があれば、昼食でもと思ったけれど、少し飛行機遅れましたね。もう時間がなくて残念ね。急ぎましょう。」矢継ぎ早に言われた。

私のほうも、とにかく国際線に乗り継ぐ手続きが済むまでは気が気ではない。そこに追い討ちをかけるように、「先生、実は先日ロンドンでテロ未遂事件が発生しているので、空港の警備が厳しくなって、国際線は3時間前のチェックインになってるんです。」とのこと。そんなニュースも知らずに過ごしていた。心配する私に「でも私がいるから大丈夫。ご安心ください。」と郝さん。ここは大船に乗った気分で任せよう。せっかくだからと慌ただしく郝さん一家と記念撮影をし、国際線のカウンターへと急ぐ。我々の前に並んだ島根大学の地質調査団というグループが、荷物チェックと大幅なオーバーチャージでトラブッている。ここは、郝さんの出番だ。彼の仲立ちでなんとかトラブルも解消。続いて行われた我々のチェックインは、彼の計らいで全くスムーズであった。これで本当に一安心。最後におまけがついた。機内持ち込み荷物の中に飲みかけのペットボトルがあった。それがテロ対策で神経をピリピリさせている空港係員のチェックにひっかかった。係員は僕のザックからそれを取り出し「ここで、飲んでみろ。」という。ガソリンなどの危険物でないかどうかを、人体実験をして、確かめようというわけだ。ちょっとむっとしたが、ここは笑顔でにっこり飲み干した。

こうして、幾多困難を乗り越えて、最後だけは無事定刻どおりに西安をテイクオフ。上海経由で名古屋へもほぼ定刻の20:50に到着。1日で、ラサから日本まで来られることがわかった。名古屋からは、この旅を反芻しながら、高速バスに揺られ松本へ帰り着いた。松本到着時刻は日付が変わった14日午前0:20。最後に今回の訪問にあたり、長山協の多くの方々にご支援頂いたこと、また多くの貴重な体験をすることができたことをこの場を借りてお礼申し上げます。

全国高体連登山専門部高体連50周年記念祝賀会

IHの閉会式直後、橿原市で標記祝賀会が開催された。長野からは、松田さんと私の二人が出席してきた。松田さんは「長野県高体連登山部の顔」だから、出席するのが当然だが、私は山岳部の指導においてはまことにだらしない人間で、IH監督経験もないくせに、D隊参加3回、審査員2回という妙な経歴の持ち主だ。そんな私だが、図々しくこの祝賀会に出席してきた。

今からちょうど10年前、僕が県の専門委員長になった年、折悪しく(!)登山部の40周年にあたっておりその祝賀会を白馬で開催することになっていたこと、40周年記念事業実行委員に決まっていた松田さんが乗鞍青年の家に敵前逃亡(当時の全国事務局金子先生のネーミング)して委員をできなくなったこと、翌年から北信越の常任が回ってくることが決まっていたことなどの様々の要素が一気に押し寄せてきたので、「40周年記念事業実行委員」を松南高校の飯沼さんと二人で引き受けた。僕にとっては、この時のお手伝いが全国の先生方とお付き合いを始めるきっかけであった。IHには、それ以前、宮城大会にもひょんなことから総監督として参加したことがあったのだが、実際はこの「40周年記念の実行委員」をしたこと、全国の常任をしたことが僕のその後の人生にも少なからぬ影響を与え、いろいろな意味で財産となっている。中でも一番大きな財産は「人」とのつながりを持てたことだ。

祝賀会の中で、10年前に全国高体連登山専門部の部長をされていた永田先生、その後を継がれた斎藤先生をはじめ、ともに審査員を務めた先生方やIHを運営された常任の先生方、北信越の先輩たちなどにお会いできたのは、単なるノスタルジーを越えた楽しい一時で、祝賀会の限られた時間の中では、全ての人と語り尽くすことができないほどだった。僕の関わったのは、長いIHの歴史の中ではほんの一瞬でしかないにも関わらず、こうして多くの方々とつながりを持てているのは、幸せである。

編集子のひとりごと

「不思議の国チベット」を書き終えました。慌てて書いたため、読み返してみると、不備な表現や、誤植などもありますが、連載中沢山の方から応援をいただくことで、一気に書き上げることができました。長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。今年度に入り、忙しさから「かわらばん」の発行頻度が間遠になっていましたが、一気に号数が増えました。これからはまた従来の気まぐれペースに戻ります。(大西 記)