不定期刊行            204号  2006.12.14

中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

木曽高校アウトドア部連続企画「木曽街道踏破

江戸と京都を結ぶ中山道は五街道の一つです。そのうちの木曽路部分は、「木曽街道」とも呼ばれています。中山道のちょうど中央に位置する木曽街道は、11の宿場町や福島の関、いにしえの石畳など、今でも随所にその面影を残しています。

定時制に通っている生徒たちの多くはこの木曽に生まれ、木曽で育ち、木曽を支えていく人材となります。そんな生徒たちとともに、古来幾多の先人の歩いた道を辿り、その足跡を辿ることで、自分たちの住んでいる木曽地域を再発見する一助にできればとの思いを込め、木曽高校アウトドア部では、秋から冬の連続企画として、全校の生徒にも声をかけてこの木曽街道を北から南へ辿る企画をしました。順次北から歩きはじめ、これまでに2回実施しました。今後順次報告します。

木曽街道踏破 第1回 桜沢から贄川宿を経て奈良井宿まで

11月16日(木) 天気はまずまずだったが、冬型が強まり、寒い一日だった・・・。が、そんな寒さにも負けず、アウトドア部の面々は、「木曽街道踏破」シリーズの第1回として、桜沢から奈良井までおよそ10キロ余りを歩いた。参加者は、生徒が田中隊長(2年)、和田副隊長(3年)、熊谷君(2年)、水上君(1年)、横澤さん(1年)、それに今井先生と僕の総勢7名であった。

10:10 桜沢の駐車場を出発。「是れより南木曽路」の碑の前で記念写真。碑の裏には、「歌ニ繪ニ其ノ名ヲ知ラレタル木曽路ハコノ桜沢ノ地ヨリ神坂ニ至ル南二十余里ナリ」とあり、桜沢の茶屋本陣の百瀬栄氏が建てたことが記されていた。スタートしてしばらくは奈良井川の右岸を走る国道19号を進むが、このあたりの谷底は深く切れ込んでいる。10:35 7月の豪雨で土石流の発生した小沢の脇を通過。今は僅かな流れであるが、豪雨時に押し出された土砂がまだ堆積している。その脇には、道祖神と庚申塚。昔もここは難所だったのか?国道の登坂車線を登りきったところから、若神子集落に入る手前に一里塚の跡があった。毎日車で通勤しながら、気づかずにいた。歩くことで見えてくるものが随所にある。ちなみに一里塚は、旧楢川村地籍だけで5カ所あるとのことだ。若神子集落には、2年前にアウトドア部の部長をしていた若田君のお宅があるので、顔を出してお母さんに挨拶をした。そのまま、国道へは下りずに西山の斜面をトラバースした旧道を進むと、やがて山腹を切り開いたマレットゴルフ場があった。和田、熊谷の両名が視察。若者は好奇心旺盛だ。そんな珍道中の我らを見て、散歩していた土地のご老人が、近づいてきた。しばらく話をしながら同道する。

贄川駅を上から望み、今年で廃校になってしまうという贄川小学校の脇へ出た。そこから歩道橋で国道を渡り、贄川集落へと向かう。「関所橋」をわたると、復元された贄川関所がある。この関所橋は、中央西線の跨線橋を兼ねていて、下を通る線路からすれば、トンネルになっているのだが、壁は開通当時の赤煉瓦造りのままで、味わいがあり、歴史を物語っていた。ここから道は、贄川の宿場へと下っていく。木曽11宿の最初の宿である。ちょうど宿場の中ほどから西を見ると、いつも国道を通るときに右手に見える観音様がやはりいつもと同じく立っていた。集落の外れにJRの古いトンネルが残っている。北側は塞がれているが、南側は少し中まで入れる。やはり赤煉瓦でアーチを組んであるそれは、一部崩れかけていたが、そこからは煉瓦を何重にも組んだ残骸を覗き見ることができた。

12:00 贄川を抜け、国道と合流するところにあるのが、「押し込めの一里塚」跡。ここが公園になっていたので、持ってきた弁当を広げて昼食とした。風が強くかなり寒い。早々に食事を切り上げて再び歩き始める。国道に出て、桃園橋を渡るときに下の淵を覗き見ると、30匹以上の魚群。ちょっとびっくり。死亡事故が頻発していることで有名な贄川の国道を下りきって、長瀬の集落へ入る。国道を通っているとそれほど感じないのだが、古い集落沿いの道には、家具や漆器の工場が何軒も軒を連ねていた。長瀬集落を抜け、再び19号に合流。平沢のセブンイレブンのところから旧道に入る。時間に少し余裕があったので、「くらしの工芸館」を見学。観光用のおみやげのほか、漆器、木工芸品等木曽の職人が作った地場産品の数々を見る。

13:25、塩尻市に編入されたため、今は支所となっているかつての旧楢川村役場の前を通る。ここには、芭蕉の句碑がある。碑には、芭蕉45歳のときの木曽路の旅「更級紀行」中の人口に膾炙した「送られつ 別れつ はては 木曽の秋」の句が、脇には「芭蕉翁」という文字が刻まれていた。「奥の細道」の前年、1688年に行ったこの旅は、漂泊の詩人芭蕉にとって、生涯の大きな転機を与えた旅の一つでもあったという。これからの踏査の中でも、芭蕉の足跡は随所に見られるはずである。支所の南の丘に立つ諏訪神社を左手にやりすごして5分も進むと、漆器の町、平沢の集落が現われてきた。古い宿場のたたずまいが残っている落ちついた町並みである。

13:45 集落を抜け、木曽川沿いを奈良井へと進む。頭上の鉄橋を貨物列車が走っていく。楢川小学校を過ぎ、国道から奈良井へ入ってくる道と合流。木曽川を渡って左岸の奈良井宿に入っていく。正面に峠山と鳥居峠が見えてきた。「次回はあそこを越えていくことになる」と生徒に予告。和田君と横澤さんは前に行ったことがあるとのこと。14:10 奈良井宿に到着。今回の予定はここまで。奈良井宿は町並みを工事中であるが、初めて訪れたという田中君はいたく感動していた。生徒には、自由に宿場を見学させ今井先生と車の回収に向かった。(第1回了)

編集子のひとりごと

教育基本法がピンチです。「教基法」が「凶器法」へと改悪させられようと言う今、教育に携わっている僕らが声を上げずして、誰がどこでいつ声を上げるのかという思いで一杯です。いじめ問題、未履修の問題などを、これにからめて、意図的に取り上げているマスコミの姿勢にも怒りが湧いてきます。生徒とともに木曽街道をのんびり歩きながら、これこそ「教育の原点」ではないのかということを感じています。定時制に通ってくる生徒たちは、実に素直で正直な子たちです。今回の木曽街道踏破の旅に賛同している子たちも多様な経歴を持っています。いろんな話をしながら、歩いているといろいろな声を聞くことができます。今、多忙な現場にあって決定的に欠けているのは、生徒と親身に向き合って彼らの声や、訴えを誠実にかつじっくり聞いてやることではないでしょうか。ゆっくり歩くことによって見えてくるものを大切にしたいものです。(大西 記)