不定期刊行            205号  2006.12.17

中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

木曽街道踏破第2回 奈良井宿から薮原宿

木曽街道第2回は12月7日(金)に実施。天気は曇り。このコースは2004年に薮原からの逆コースを当時の4年生を中心に行ったことがある。興味のある方はかわらばん121号(2004/11/18)をもう一度ご覧あれ。

さて、今回の参加生徒は男子2名、女子1名。顧問は私と今井先生の2名。薮原駅に僕の車を置き、車回しをして、今井さんの車で10時半「奈良井の大橋」に到着。準備を終わって今井さんが「大西先生、車の鍵は?」「そのままおいといて。」と何の気なしに言った僕・・・。

川を渡って奈良井宿の本通りへはいる。奈良井宿の北側は全面的に修復工事中であった上、もうシーズンオフといってもいい12月でもある。それにも関わらず宿場は観光客で大にぎわい。ちょうど大型の観光バスの到着時刻に重なったためだろう。そんな宿場をぶらぶらと歩きながら足慣らし。宿場の真ん中の鍵の手あたりは写真を撮る人びとがうじゃうじゃいたのだが、町はずれの高札場を過ぎ鎮神社まで来るともう人通りはない。この時期に鳥居峠越えをするような物好きは僕らの他にはいないようだ。10:45 宿場を離れ峠道へとさしかかる。いきなりの急登だが、石畳が敷かれた道は歩きやすい。20分ほど登ると左手の高台に展望台がある。高曇りではあったが中アの駒ヶ岳がよく見えた。

11:20 葬沢を渡ると中の茶屋だ。「葬沢」とは物騒なネーミングだが、なんでも武田勝頼が木曽を攻め込んだときに、迎え撃った木曽義昌が大勝利を収め、武田方の死者500名の屍を葬ったところからのものだという。またこの「中の茶屋」は、菊池寛の小説「恩讐の彼方に」で主人公市九郎がお弓と開いたものだが、茶屋家業は表の顔、実際は人斬り強盗を生業としていたという茶屋でもある。今は、東屋がひっそりと建っている。

ここから鳥居峠が正面に窓のように見える道をしばらく緩やかに進むが、木橋が連続し、左手から電線が道の脇に現われてくると道は再び急になった。いくつかの沢では今年の7月の豪雨の後遺症で所々橋は流され現在修復中だった。大きな栃の木が現われ、九十九折りの道を3回ほど折り返すと峠の茶屋に到着した。ふり返れば、眼下にはさっきまで歩いていた喧噪の奈良井宿の町並みが豆粒のように見える。街道はここで、いったん車道と合流するが、奈良井側は7月の豪雨で崩れたままで通行止めだった。少し薮原側に進むと今度は御嶽が見えるのだが、天気は急激に下り坂で、到着したときにはくっきり見えていた御嶽が、わずか10分ほどで見えなくなってしまった。僅かな時間でも「見えた」のだから、ある意味ラッキーだった。

時刻は11:50。峠の茶屋は無人の立派な避難小屋である。早速この小屋に入り込み、昼食と相成った。今回は時間がたっぷりあったので、ラーメンを作る。ラーメンといっても麺は「生麺」を使い、もやし、キャベツ、葱など野菜をたっぷりいれ、豚肉を煮込んだ本格派。夏には小屋の脇には渾々と湧く水があるのだが、今は涸れていた。水を持ち上げたのは正解だった。ただし少し足りなかったので、200mほど下の沢まで水汲みに走った。ここで、重大な事実に気が付いた。そう、薮原においてきた僕の車の「鍵」・・・・。やらかしてしまった。何のための車回し?

13:05 「薮原から電車で戻りましょう」と私のミスにも寛大な仲間たちとともに、気を取り直して薮原へ向かってGO!車道と分かれるところにある「熊除けの鐘」を鳴らして、再び歩道に入ると、大きな洞をもった有名な「子産みの栃」を始めとする栃の木の群生地。さらに進むと御嶽神社(遙拝所)がある。もうすでに御嶽は雲の彼方に姿を隠してしまったが、ここはこの街道筋の最高点で最も眺望のよい場所であり、長峰峠、拝殿山、福島下条神戸と並んで御嶽の四門の一つとも言われる遙拝所である。御嶽の遙拝所はこれ以外にもあちこちにあり、松本市内の中山地区の棚峯などもそうである。おそるべき御嶽信仰である。古くは吉蘇(きそ)の県坂と呼ばれ、中世には奈良井坂とも薮原坂とも呼ばれていたこの峠が鳥居峠と呼ばれるようになった由来を、史書は先に名前を挙げた義昌の祖父16代木曽義元が、御嶽に戦勝を祈願してこの場所に鳥居を建てたことにちなむと伝えている。

ここからは、トラバースしながら下る道と尾根通しに下る道があるが、今回は丸山公園まで尾根通しに下った。途中に芭蕉の句碑が二つ「木曾路の栃うき世の人の土産かな」(天保13年/1842の建立)「雲雀よりうへにやすらふ峠かな」(享和元年/1801の建立)。その他にもいくつかの碑があったが、田中君が興味を示したので、一緒に少し解読を試みると、そのうちの一番大きいものには、この地の由来が刻まれていた。尾根を下って広場に出ると、かつての測候所の跡があり、ここには木祖村管理の避難小屋がある。こちらは峠の茶屋とは違い(注1)、12月からは冬季閉鎖ということで、鍵がかかっていた。

右手には小木曽、左手には薮原を見ながら九十九折れの道を一気に下る。集落に入って、しばらく下ったところが尾張藩のお鷹匠(城)。今はただそこに名を残す看板が立っているのみ。薮原神社、極楽寺を見て、少し戻り薮原宿へ入る。宿場入り口には銘酒「木曽路」の湯川酒造。木曽路には5軒の造り酒屋があるが、今日は奈良井の笹井酒造(「杉の森」)と2軒をスライド。時間が許し、車の運転がなければ一口ずつ味わいたいところだった。14:40薮原駅に到着。だが、車は目の前にあっても、ただの箱に過ぎなかった。・・・お粗末。(第2回了)

(注1)峠の茶屋(避難小屋)は、このとき(12月7日)は開いていたのだが、12月15日には入口に「冬期閉鎖」の紙が張られ、鍵がかかっていて入れなかった。

編集子のひとりごと

「木曽街道踏破」の番外編として、16日に生徒たちと鳥居峠の「避難小屋」で一晩明かそうという計画を立てたところ、5人の生徒が参加を表明。しかし14日の天気が悪かったので、林道のことなどが心配になって15日に下見がてら車で峠まで登った。うっすらと雪の積もった道を峠につくと、横浜から来たという老夫婦が鍵のかかった小屋の前でたたずんでいた。なんでもこの夫婦、東海道、日光街道、奥州街道、甲州街道をすでに歩き通し、中山道もここまで来たとのことだったが、折からの雪に驚いていた。夫婦は鍵がかかって入れない避難小屋を「非難」していたが、翌日使うつもりだった僕もがっかり。学校に帰って生徒にその旨を伝え、番外編は延期と相成った。(大西 記)