不定期刊行            208号  2006.12.28

中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

焚き火&野宿&耐寒サバイバル体験を生徒はどう感じたか

前回の耐寒ビバークを体験した生徒はどんな感想を持ったか?私と一緒に参加した木曽高校定時制の田中岳君が感想を寄せてくれたので、以下に紹介したい。

「耐寒ビバークに途中参加のこと」

田中 岳 

さて、クライミングの講習が終わったその日の夕方、大西師の車は私を乗せ、大町市の川原へ向かっていた。私の家は木曽の王滝であるが、では、何故そのような方角へ?

答えは、大町高校の耐寒ビバークに参加させて頂くため、である。実はこの日、我らアウトドア部は鳥居峠での宿泊を予定していたのだが、あいにく、峠の小屋は冬季閉鎖しており、あえなく計画は中止となってしまったのだが、そうすると、クライミングから帰る頃には私が帰るバスが無くなってしまう。そこで、私が大西師に無理を言って、大町高校の方々にも無理を言って、彼らの耐寒ビバークに参加させていただいたのである。

そもそも、耐寒ビバークというものは、焚き火をおこすところから始まるのだが、点火の際、彼らが使うことを許されるのはマッチとライターのみだという。一度、火がおこって大きなものになってしまえば、それを絶やさないようにするのは難しいことではないが、その、肝心の火を大きくするまでに新聞紙さえも使えない状況というのは、私は未だ経験したことが無い。・・・しかし、私達が高瀬川の川原に到着した時には、既に日は暮れており、案内役の小山さんに導かれて、彼らがビバークしているところに行くと、既に大きな焚き火がいくつも見られる。それはメンバーひとりひとりがおこした焚き火であって、それらに加えてひとつ、皆で食事を作り、話し合うための焚き火も設けられていた。

つまり、「途中参加」とは、自分で焚き火もおこさず、大町高校の皆様が一段落ついていらっしゃるところに、勝手に割り込んで、焚き火の温もりも頂戴しまして、とまぁ、こういうことである。

まずは、春山講習の際に初めから終わりまでずっと私を助けて下さった、ありがたき大町高校の皆様と再開を喜び、二、三、挨拶を交わした後、ごちそうまで頂き、皆で焚き火を囲んで談笑しながら、私はというと、数奇な運命によって持つに到った三本のネギ(?)の処置に困って、「これ刻んで食います?」などとつまらないことを言っていたのだが、大町高校の大先生が「蒸し焼きだな」と鶴の一声。新聞紙に包んで、水をくぐらせ、焚き火の中にくべてしまうと、アラ不思議。ちょうどいい按配でネギの蒸し焼きになっているのだ。塩コショウを振れば、立派な一品料理の完成である。

その蒸し焼きに感銘を受けて・・・という訳では無いが、山男達と一緒にひとつの火を囲んでいると、いたる所で彼らの「山生活の知恵」が登場し、それに私はいちいち驚かされ、そのつきつめた合理性に多くを学ぶのであった。・・・あ、ひとり、女性の先生もいらっしゃいましたけど、残念なことに九時前に帰られてしまいましたよ。

そんなこんなで二時間ほど過ぎてから、皆がそろそろと自分の焚き火に戻り始めても、私は独り、焚き火の前に座り続け、結局、それを自分のものにしてしまった。

コッヘルのジュースをなめるように飲みながら、川原に粗朶を探しに行って、大きな流木から枝をポキリ、ポキリとやって持ってきたり、湿ったその焚き木から昇ってくる煙に涙を流したりと、結局、山男達とはあまり多くを語らず、私は火ばかりを見て、陽気に小さな声で歌を口ずさんでは、悦に入っていたのだが、その時間の幸福だったこと。

これは、どんな言葉をもってしても語り尽くせるものではないし、実体験を抜きにして共有できる感情でもないだろう。

その夜、気温は暖かく、日付が改まってからも氷点下に下がる気配は無かった。

談笑している時、大先生は、これでは耐寒ビバークにならないから、もう一度実施しないとな、などと、笑いながら仰っていたが、私は、こういうビバークを体験することができて、とても嬉しかった。

それから、大きな石がうずまった川原に、破れかけの薄い銀マット二枚と、そうでないしっかりしたやつを一枚敷いて、シュラフにもぐり、ブルーシートを腰まで被った。

それが、本当にぐっすりと眠れたこと。眠れないと思うことさえなかった。

他にも、数え切れない発見と邂逅があって、一つとして満足に書ききれないのだが、それでも、ずっと大きな音を立てていた川の音や、歌う声が空に消えていく感じ、あかく燃えるおきの暖かさなどは、今でもその場にいるように、克明に思い出されて、忘れない。

素敵な夜を、ありがとうございました。

編集子のひとりごと

中信高校山岳部年報No.30の編集の最終作業に入っている。創刊30年の節目の記念号にするべく、創刊号から昨年発行された29号まで目を通して、資料を整理しながら、懐かしい先生方の名前や卒業後現役で活動しているクライマーの名前をみつけては一人悦に入っている。創刊号が発行されたのは1977年、この年、僕は高校3年だった。当時山岳部に所属していれば、記念すべき創刊号に名前を連ねるという幸運に浴するところだったが、残念ながら僕自身はへっぽこバスケットボール部員だった。しかし、山岳部とバスケット部は部室も隣り合わせだったので、山岳部のことはよく覚えている。そのうちの一人が前山岳総合センター専門主事の加々美隆君である。第一顧問は渡会意士先生だった。山岳部が隣の部室で用意をし、キスリングに大鍋をくくりつけて山に行く姿をよく見送ったものだ。だから、創刊号には当然僕の母校の山岳部の活動報告も掲載されており、そこには加々美君をはじめとする同級生の名前もある。

このころの年報には、当時はどの高校も冬休みにはいると合宿を組んでいたことが記録に残っている。だいたい、12月27日か28日ごろから2泊3日程度が多いのだが、山は遠見尾根や八方尾根、黒沢尾根、須砂渡から常念、木曽駒などといった具合で多岐にわたるが、経年的にみると遠見尾根がダントツで多い。中信安全登山研究会でも、勢いこの合宿計画の検討がなされていたわけだが、今年の冬休みは残念ながら中信地区の高校で山に入るところはどこもない。これは生徒ばかりではなく、我々の側にも問題が見いだせそうである。今、この時期のこれらの山に、生徒とともに入山することができる顧問はどれだけいるだろうか?(大西 記)