不定期刊行            213号  2007.2.17

中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

市立大町山岳博物館 企画展 北アルプス山人たちの系譜

―嘉門次、品右衛門、喜作登場の背景―

12日の月曜日に市立大町山岳博物館で開催されている標記の特別展を見てきた。北アルプスを生活の場として猟師生活を送った旧安曇村(現松本市)島々の上条嘉門次、旧野口村大出(現大町市平)の遠山品右衛門、旧西穂高村(現安曇野市)牧の小林喜作を中心に構成されたこの企画展は一見の価値ありなので、紹介したい。

「上高地の主」「穂高の仙人」「南のおやじ」こと上条嘉門次、「黒部の主」「山の親父」「人心をもった山の主」とよばれた遠山品右衛門、そして「山の神」「アルプスの名物男」はては『喜作新道』の著者山本茂美をして「山庄屋としての威厳」とまで呼ばしめた小林喜作・・・。彼らは、明治30年前後から大正期にかけて北アルプス登山をした日本山岳会の初期メンバーやウェストンらの山案内をしたことによって、近代登山史にも名を刻み、世に知られることになった。しかし、彼らの本職はまぎれもなく猟師であり、北アルプスを自分の庭として縦横無尽に駆け回った山人――やまうど――であった。そういった「山人」の視点からの展示は興味深かった。去年は里にツキノワクマが現れることが大きな問題となったが、彼らが動物たちの生活する世界に入っていくために実際に使っていた様々な道具などを見ると、彼らが生きた時代の動物と人間の関わりが見えてくる。彼らの猟期は主に冬、厳しい冬の北アルプスを生活の場にしていた彼ら山人たちの知恵。現在の日常生活の枠組みの中にいる限り、そう遠くない昔にこういう人々が生きていたことは、想像すら難しい。

誤解を恐れずにいえば、今までの日本近代登山史は、日本山岳会やウェストンなど「外(よそ者)」の視点から語られることが多かったように思う。山を生活の場にしていたこれらの人々の観点からの、いわば民衆史ともよびうる一連の展示は北アルプスの「内」からのアプローチといえるのかもしれない。蛇足ながら、先日、中信高校山岳部の年報ができあがったので広告料をいただきに常念小屋の山田恒男さんのところにお邪魔した。山田さんは「常念小屋が来年90周年を迎えるので、今その歴史をまとめているんだが・・・」といいながら、北アルプス南部の山小屋に関する色々な話をしてくれた。そこに出てきた話でこの展示とダブるものも多くあった。我々が日頃見慣れ、歩き慣れている北アルプス、そんな「おらが山」の歴史を知るのも楽しみである。

この企画展の会期は3月27日までだそうだ。興味のある向きは足を運んでみてはいかがでしょうか?

八ヶ岳敗退の記

11、12の両日八ヶ岳に行ってきた。少し登攀をしたくてBCを大同心稜の取り付きに設営した。11日は天気が良い上にポカポカ陽気であったのだが、12日の早朝から天候は荒れ始め、雪がテントをたたく音で目覚めた。そういった状況下であったので、雪崩等の危険を回避するため、しばらく様子見の後、8時30分ごろ、目的とする小同心クラックに出かけた。天気は小雪。今回のメンバーは6人。小同心クラックの取り付き点まではひとまず大同心稜のやせ尾根を登る。非常な急坂を約1時間半で大同心の下部に到達した。ここで先行パーティが岩登りをしているのに追いつく。

我々はここから南側にこの大同心を巻き込み、ルンゼをわたり、小同心の基部までトラバースする。予想外にしょっぱい。一歩足を滑らせば、下は千尋の谷。慎重に一歩一歩雪にステップを切って進んでいく。トラバースに約40分を費やし、小同心の取り付き点に到着したのはすでに10時35分だった。早速登りたいところが、先行パーティがあり、すぐ上のところで苦戦しているので、我々もすぐには取り付けずに順番待ち。我々のあとからもさらに2パーティがやってきた。天候は相変わらず小雪の舞う状況で、時折突風もふいている。手元の温度計で測ると気温は氷点下17度ほど。風が吹いた時の体感温度は、おそらく氷点下25度ほどにはなっていたかと思う。しかし、岩場に取り付けるのは一人だけである。先行パーティが登り切るまでは、迂闊にとりつくことはできず待ちぼうけ。

我々の6人パーティのトップS氏が登り始めたのが11時。しかし身体はすでに冷え切り筋肉は固まっている。また、ここまでのトラバースも緊張の連続であったので、精神的な消耗も激しかった。そんな影響もあったからか、30mほど登ったところの悪場をどうしても乗り越えられない。

そうこうしている間に、先行パーティがさらに上部の核心部をのりこえられないと判断したのだろう、あきらめて懸垂で下ってきた。意外に難しいようだ。我々も2番手のO氏がS氏に変わってチャレンジするが、寒さと先行者の敗退がさらに微妙に影響したのだろうか?チムニーを乗り越すことができない。岩登りというのはメンタルなスポーツでもあり、いったん戦意を喪失するとなかなか回復が難しい。1時間40分ほど二人がもがいているのを我々はなすすべもなく見ているのみ。寒さに震えながら・・・。我々は6人という大パーティ。結局、これ以上ここで時間を費やしても6人全員が抜けるのは難しい。それ以上に今日中の帰還も危ぶまれたので、12時40分に撤退を決定した。

登れぬ悔しさは残ったが、山は逃げるわけではない。また出直すこともできる。次回へのお預けだ。それからは来た道を慎重に下り、テントを撤収。下山して美濃戸口の車にたどり着いたのは、17時30分。なんとか日のあるうちに下山できた。高速諏訪湖サービスエリアのハイウェイ温泉で冷え切った身体を温めながら、捲土重来を期した。

編集子のひとりごと

2001年にカシタシに遠征するときに新調したプラブーツがだいぶくたびれてきた。最近は再び革靴が見直されてきているので山道具屋を見てまわったり評判を聞いたりして情報を集めているところだが、新素材の靴も評判になったりしているので、そちらも気になっている。安いものじゃないし、命をかけるものでもあるからよくよく検討しているわけだ。長年愛用してきたヤッケもゴアのコーティングがはがれてきて役立たず状態。これもなんとかしなくちゃ・・・。とは思っているのだが、年末には松田さんに勧められて兼用靴を買ったばかり。欲しいもの、新調しなくちゃいけないものが次から次へと出てきて頭が痛い。「うちのどこにそんなお金があるの?」女房の白い目にさらされながら、なんとか金策をしなくちゃと頭をかかえている今日この頃。(大西 記)