不定期刊行            234号  2007.10.22

中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

ネパールは私たちの心のカナリア 1(NMA:アン・ツェリン)

テキスト ボックス: 10月の上旬UIAAの会議のためにやってきたネパール山岳協会のアン・ツェリン会長が同時に開催された「松本国際山岳環境会議」でネパールの氷河後退について講演してくれた。講演の中でも、また講演を終えたあとにも彼は、日本の多くの皆さんにメッセージを是非伝えてほしいとのことだったので、2回にわけて紹介する。

1.氷河湖が破裂し、突然洪水になる恐れがある。ネパールは、私たちの心のカナリア。ネパールは、地球温暖化の世界で一番早い予告システム地でその予告は既に始まっている。ネパールは、海抜数メートルの熱帯低地から地球の最高点まで擁する場所。

母なるサガルマータは、あなた方が乗る飛行機の高度と同じ、8850mもあります。その山の急峻な氷の斜面は、強靭な登山家をも容赦なく脅かしています。私たちは、巨大で、堅く、聳え立つ山エベレストは不変で傷付けられることはないと思っています。しかし母なるサガルマータは少数の人だけが知っているように、実は地球上で最も危険に曝されている場所の一つなのです。

人工的な気候変動の為に、低地では現在、気がつく程ではありませんが、ヒマラヤ高地は世界で一番傷付けられやすい場所なので、速い速度で気候が大変動している状態にあります。

海面と殆ど同じ高さから地球で一番の高地までのネパールは、世界中の全ての気候と気温と地形を有します。

2.誰もが山岳地帯に氷河があるのを、知っている。

ネパールの氷河は、驚くほどの高率で、溶けています。ヒマラヤ高地には、3000以上もの氷河があり、過去40年間にほぼ同じ数の新しい氷河湖が形成されました。約3000の氷河湖の壁は、もしも雪崩、土砂崩れ、豪雪、地震、そして急激な雪解けなどが起これば、いつでも破壊されてしまいます。

3.ネパールの人々は、地球温暖化に脅されている。

氷河湖が暖まり、アイスダムが崩壊すれば、次に上げるものが流されてしまいます。橋、建物、登山道、水力発電所、森、家畜、野生生物、そして悲惨にも人々までも。

4.気候変化を遅らせる挑戦をするためには、私達の社会、環境、経済を分析し検討しなければならない。

社会、環境、経済問題は、小さな国内での、広範な気候の違いと同じく、拡大しています。ネパールには、90のそれぞれ違う言葉、習慣、伝統を持つ民族があります。ネパール社会の組織はそれぞれの民族の社会や文化を尊重することによって成り立っています。彼らの環境との関係や経済への関与など。もしもこの突然の氷河湖の崩壊による洪水GLOFsGlacial Lake Outburst Flooding)が起これば、ネパール人社会は、ずたずたに切り裂かれてしまうことでしょう。

5.ネパールの環境もまた、気候変化に脅かされている。

世界で一番壊れやすいエコシステムの幾つかが、巨大な氷河湖の直ぐ下にあります。氷河湖が流れ出せば、山岳農民の耕作のための土が流され、耕作不可能な岩盤が残されます。野生動物と家畜も、谷間の森も流されてしまいます。環境が元に戻るためには、何年もの長い年月がかかることでしょう。

6.ネパールの主な経済は、観光に基づいている。これも、地球温暖化と氷河湖の増加により、脅かされている。

何世代ものネパール人が我々の経済界に投資し、築いて来ました。その全てが、地球温暖化によるGLOFsにより、流されてしまいます。観光経済も深刻な打撃を受けるでしょう。地形が破壊されるばかりでなく、長年の観光界の信頼も失ってしまうのです。2005年の津波と違って、ネパールの山岳環境と民族組織の再建は大変困難です。海に面していれば災害の援助のための人も援助品もボートで運ぶことが出来ますが、山岳地帯の交通手段も地方経済も大変に脆弱ですから、復旧には何年も何十年もかかることでしょう。

編集子のひとりごと

冒頭に掲げたが、ネパール山岳協会の会長アン・ツェリン・シェルパ氏の講演を2回にわけて紹介したい。上の写真はこの50年間でいかに氷河が後退したかを如実に語っていて実に示唆的である。なお、本文は彼自身から直接もらったプレゼンテーションのレジュメを、日山協の本木總子さん経由で和訳してもらったもの(一部大西が手直し)を使わせてもらっていることをお断りしたい。UIAAの会議中、ネパール代表団は9人が訪れた。2005年に長山協とネパール山岳協会は友好協定を結び、その折、私もネパールを訪れた。協定締結はしたものの、その後具体的な何かをしてきたわけではなかったが、彼らが長山協を含む日本に様々な面で期待をしているのは事実である。

大遠征や大上段に振りかぶった交流ばかりではなく、身の丈に応じた形での彼らとの心の交流ができればいいなと思っている。彼らの松本滞在中は、時間を見ては場面場面でいろいろな話ができた。友人として、彼の訴えを広く伝えるのも私に与えられた一つの交流の形である。(大西 記)