不定期刊行            243号  2007.12.21

中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

高校生クライミング合同練習(交流)のお誘い

以下、大町高校の小沼拓也先生からの提案です。中信安全登山研究会でも提起されましたが、クライミングや雪山については、合同で練習することの意義は大きいと思います。楽しい企画はかわらばんでも積極的に紹介したいと思いますが、賛同される方、参加を希望される方ぜひ連絡をとってみてください。

15日は(残念ながら隠れ滝には行かれませんでしたが)、美須の生徒たちも3人来て、AWを占拠して賑やかに練習しました。人が多いといいですね。生徒同士で教え合いながら、熱心に登っていました。生徒からすれば、大人とやるより同年代の者どうしでワイワイ切磋琢磨したほうが、それは楽しいですよね。今後冬の間はインドアジムでの練習が増えるので、積極的に他校との合同練習(交流)をしたいと思います。そういえば、過日AWで飯田工業の若手教員2人(山岳部顧問ではない)に会ったことがあります。メディアで知って興味をもち、クライミングを始めたそうです。教員間でも愛好者の広がる可能性を感じます。合同練習には、生徒連れでなくても教職員だけで顔をだしてもらってもいいと思います。他校生の様子を見てもらったり、教員同士でロープを組んで交流できますから。

というわけで、かわら版で、高校生クライミング合同練習に興味のある方へ私にメールをくれるよう呼びかけてもらえませんか?メールをもらえれば、こちらの練習日などを随時お知らせします。

 

                  (大町高校 小沼 拓也)

松田 大氏の「大会登山参加四方山話」 その3

1987年(昭和62年)は以前より参加したいと望んでいた北海道大会で、ニセコ・羊蹄山が会場であった。開会式前日の専門委員長会議終了後、北信越5県が残り、北信越登山大会の最後の詰めをした。なかなか順番が決まらない中、新潟の安野委員長が鶴の一声、「1回目は新潟が受け持つから、大チャン2回目は長野でやって。」その後は富山、石川、福井の順で決着がついた。プログラムでは総監督で登録したが、赤羽さんに代わって貰った。天候が悪く寒かったことが最大の思い出である。接待所の冷たい牛乳は誰からも見向きもされず、熱い麦茶に選手諸君が殺到した。軽量化に拘ったペラペラのレスキューシュラフは大失敗で、寒くて眠れないほどであった。羊蹄山は結局途中引き返しであり、閉会式の翌日に漸くその姿が眺められた。前年と全く同じメンバーで臨んだが、6位の好成績で、最終日も全コース実施なら更に上位も狙えた。生徒の一年間の進歩を感じた大会であった。北海道には新潟からフェリー利用で、小生と赤羽さんの車で行ったが、帰路の小樽でフェリー乗り場を探している最中に、乗り場探しに熱中して脇見をしていた小生が、赤羽さんの新車のコロナに追突するというオマケが付くなど、散々な結末であった。

(編者注 このことについては先日赤羽さんと二人で越百に登ったおり、じっくり聞くことができました。追突と言えば、S氏の波田町でのI氏への事故、信高山岳会戸隠での山行の際のM氏の事故などもあったっけね。山の行き帰りは疲れていることもあります。みなさん十分気をつけましょう・・・ね!)

 1988年(昭和63年)は大阪大会で、沢登りがコースに入っていた。この大会では役員は暑さ対策で半袖であった。金剛・和泉山系のゴールデントレイルが会場で、長くて暑かった。小生は初のD隊参加で、各県の重鎮らと楽しく過ごした。最終日の宿舎では飲み過ぎた関東某県の監督が大変な蘇祖を起こし、後に全国高体連でも問題視された。

 平成に入り、1989年(元年)は愛媛大会で、石鎚山系が会場であった。この年から地区常任で、C隊技術員(審査員の以前の名称)の任に当たった。総監督の高橋さんと呉越同舟で、途中一泊しながら愛媛西条に向かった。この時初めて本四架橋を通過した。開会式は台風の豪雨で急遽体育館で行われたが、初日の登山行動は雨具着用で別子銅山の銅山越えまで登り、幕営審査等も予定通り実施した。この頃の天気図審査は各隊毎で、薄暗い裸電球の下に23枚の天気図を広げて、出来映え順に並べて採点した。夜は新居浜市の夏祭りの花火大会を俯瞰したが、花火は見下ろすものではなく見上げた方が良いと実感した。夜半からの豪雨で翌日以降の行動は大幅に短縮。結局最も長い行程を予定していたC隊は石鎚山にも登れず最も短い行程となってしまった。C隊技術員のチーフは群馬の村上さんで、和尚なのに歩行審査が厳しかった思い出がある。帰路は高橋さんと温泉巡りをして帰った。

 1990年(平成2年)は宮城蔵王を会場とした。この時もC隊で今度は審査員(この年から技術員を名称変更)であった。総監督の大西さんと、「行きは小生が運転するから帰りは頼むよ。帰りは日本海側を廻って旨い魚などを食べて帰ろうよ。」と気楽に出かけた。兎に角暑い大会で、一日の行程中で水2Lでは足りなかったことは、通常の山行を含めこの時が最初で最後である。C隊審査員は3名、チーフは秋田の今野さんで、一番若い小生が読図ポイント設定など行ったり来たりの役目であった。毎日宿舎で風呂に入れるので助かった。全国のC隊参加チームの中には変わりダネもあり、メンバーが膝を痛めているとの理由で、毎日最後の降りになるとリタイアしたチームがあった。最終日大西さんは不幸があったため急遽新潟へ、小生は一人寂しく何処へも寄らずに一路長野県へ。イヤァー!!宮城仙台秋保温泉からは遠かった。

(編者注 この年は信高山岳会が第2回訪中隊とボゴダ西域トレッキングを夏休みに出したため、専門委員はみんな出払ってしまった。そこでなんの経験も知識もない私が高橋さんに変わって総監督としてIHデビューした。宮城蔵王の美味しい部分を歩き、毎晩違う温泉でD隊を満喫、最終日に秋保温泉で湯船につかっていたら、妻の母が急に亡くなったという緊急連絡が入った。私自身は、翌日の閉会式に出てから帰るという算段をしていたところ、大さんから「嫁さんの一大事に駆けつけない婿があるか!」と一喝され、急遽東北・上越新幹線を乗り継いで妻の実家の新潟まで駆けつけ通夜に間に合ったということもあった。このときの大さんの対応には今でも厚く感謝しています。)

編集子のひとりごと

小沼さんの提案にあるように、高校生同士がワイワイ、そして顧問同士がワイワイできるような環境ができればいいことです。山岳部の復権をみんなの手で!(大西 記)