不定期刊行            244号  2007.12.22

中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

隠れ滝のそばにもう一つゲレンデを開拓しました

先週計画したクライミング交流会は、冬型気圧配置で雪のため中止にした。そこで、今日22日に雪辱戦を計画。森山さんにも来ていただき、実施した。残念ながら参加したのは木曽・木曽青峰高校の生徒が4名と教員が3名で他の学校からの参加はなかったが、隠れ滝の近隣にもう一カ所下見をしておいた岩場を森山さんに開拓していただき、3本のルートを開いてもらった(写真右:登っているのは森山さん)。こちらは隠れ滝の岩場へ降りる駐車場から木曽川右岸道路を南へ、隠れ滝トンネルを抜けたところにある。隠れ滝とはまた違った雰囲気である。こちらも駐車場からのアプローチは1分。好ロケーションである。車曇り模様の空であったが、気温もそれほど低くなく、まあまあ快適な一日だった。

河原で焚き火しながらのクライミング(写真左)で、火焚きに興ずるものあり、新たなルートにとりつくものあり、森山さんのムーブに感嘆するものあり、今日は「冬至」であったが、寒さも吹っ飛ばすような元気な若者の声が夕暮れ近くまで響いた。

先日開催された「長山協理事会」の中でも、ジュニア・競技部の合同事業としてクライミング環境の整備ということも議論され、一定の予算付けも得た。もちろん、森山さんや中嶋さんには大きなお世話になることになるのだが・・・。中信安全登山研究会でも、「外岩」の持つ可能性が語られたが、安全な「クライミングゲレンデ」の整備が進めば、高校生への新たな楽しみの場が広がるのは間違いない。人工ボードと外岩はやっぱり違うというのが、私の見解。「攀じる」という目で見ると、案外手頃な岩場が埋もれている可能性もある。県内の皆さんでそんなところを見つけたということがあれば、遠慮無く連絡してください。小生長山協の役員をしている関係上、仲介をします。木曽・木曽青峰高校だけでその恩恵に与っているんじゃ持申し訳ないから。

松田 大氏の「大会登山参加四方山話」 その4

 1991年(平成3年)は静岡大会で南アルプス南部が会場。前年の常任委員会の折、静岡の戸嶋登山隊長に、「会場は半分長野県の山だから、呼んでくれたらいくらでも手伝うよ」なんて調子の良いことを云ったのが徒で、隊の審査員を務めた。この際、静岡県から、「長野県から一人役員を派遣して頂きたい」ではなくて、松田大を指名しての派遣要請に、高体連本部で異論が有ったようだが小生の与り知る事ではない。近県と云うこともあり、審査員事前下見(7月上旬)にも参加した。下見の連絡に大きめのザックやシュラフを持参とあったが、行ってみて意味がわかった。まだ小屋空け前なので、自炊をしてくれとのことで、食料や飲み物、火器など一切合切を渡された。荷物は重かったが、人の殆ど居ない南アは天候にもマー恵まれ快適であった。本番は金子隊隊長のマジック?で、ほぼノートラブルで全チームが全コースを踏破した。尤もエスケープルートの無いコースだから行くしかないのだったが・・・・。大会の読図ポイントは多くの場合、地元が候補をいくつか用意しそれを使用するのだが、この時は2地点を小生の偏見と独断で変更した。その結果地元静岡県のチームがその2ポイントを間違えてしまい入賞できなかった。恨まれたかも?!。畑薙から入山して島へ下山するなんて行程で、長野県人には滅多に行く機会のないコースを歩けた。

 1992年(平成4年)は宮崎大会。視察員として総監督の伊澤さんと久しぶりに隊に参加した。小生の車で、途中山口県のSAで一泊しながら出かけた。延岡の宿舎に落ち着いて伊澤さんに、「高体連旗を持って来たよネッ」と聞いたところ「何それ?」との返答。要項を確認した伊澤さん曰く、「本当だ。でも家に置いて来ちまった。どうしよう?大サン」。そんなドジな専門部があるから、きっと県の本部が予備を持って来ているはずだから、電話して聞いてみたらと助言。宮崎市に宿舎を取っていた長野県の本部に電話したところ、あるから取りの来いとのこと。てな訳で台風上陸の雨模様の中、宮崎市までドライブ。延岡から宮崎まで80km以上もあることをこの時初めて知った。大会会場の大崩山系はメチャクチャな急坂と平坦が入り交じっていた。踏み跡程度の登山道を大会に備えて切り開いたため、自然保護を称する団体から新聞紙上で叩かれていた。小生初日の行動の終わりに、宿舎の横で舗装の端を踏み外して左足を捻挫、翌日の山行をリタイア。と為るところであったが、大型の台風が接近し登山行動は中止、D隊は高千穂峡見物をした。大サンのお蔭だとみんなに散々冷やかされた。この晩通過した台風は猛烈であったが、小生らの宿舎の民宿は築400年という神職の家であり、ビクともしなくて、「何だ、本場の台風もたいしたこと無いな」と軽口を叩く者も居た。みんなでどうせ明日はダメだからと有りっ丈の酒を飲んで寝た。しかし一夜明けて外へ出てビックリ、屋根の飛ばされた家や瓦が吹き飛んだ家だらけ、道には大きな木が倒れており交通遮断状態。停電は続いており、ラジオの電波も停波状態で、アマチュア無線が唯一の情報入力手段であった。後で聞いた話では、まだ新しい町営の宿舎に泊まった人たちは、倒壊に戦き、雨具着用で登山靴を履いた臨戦態勢で、一睡も出来なかったと云っていた。其処の宿舎はどちらかというとベテランの方々が配宿され、初めは羨ましかったが、何が幸いするかわからないものである。閉会式後延岡工業高校に駐車した車を取りに行ってまたまたビックリ、浸水は免れたものの、白い車がドロドロの焦げ茶色に変わっていた。熊本のスタンドで給油がてら洗車して貰ったが、迷惑そうであった。帰路も当然二日がかりであった。

編集子のひとりごと

同じような話題、ご容赦。皆さんの近くに眠っている岩場はないですか。(大西 記)