不定期刊行            245号  2008.1.9

中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

大町北高校と上高地雪上体験を一緒にしませんか

「雪上体験、一緒にしませんか?」というお誘いが大町北高の下岡さんから寄せられました。一校ではどうもとか、顧問の手当がつかなくてなどという学校は、合同合宿という形でいかがでしょうか?以下に概要を示しますので、興味のある方は連絡をとってみてください。

大町北高校山岳部では、1月19日、20日に上高地へ行く計画を立てています。

19日ゆっくり出て上高地小梨平まで。小梨平に幕営して雪上宿泊体験。

翌日ゆっくり上高地を散策して戻る予定です。

装備は、防寒着、雨具、幕営用具一式、で大丈夫。

足回りは、何もなければ長靴にスパッツで何とかなると思います。

合同雪上訓練に、冬の上高地の景色を見に、一緒に上高地へ行きませんか。

希望の学校ありましたら、下岡までご連絡ください。

п@0261-22-0149(大町北高校)

計画書はそれぞれのクラブで作りましょう。

北校でも計画書を作りますので、必要あればお送りします。

美しい景色を見に、楽しい雪上体験をしに、いざ、上高地へ!

松田 大氏の「大会登山参加四方山話」 その5

 1993年(平成5年)の栃木大会は訪中隊参加で専門委員長以下不在。海外はダメな小生はこの年も総監督としてD隊に参加した。この年の大会期間中はずっと雨続きで、日光山系の白根山も男体山も雨の中の登山であった。取り立てた思い出もなく、酒だけはよく飲んだ。大会参加回数だけは10回目の節目であった。鳥取大会の隊長に決まっている熊田さんから、「松田さん、大山には是非来てよネ」と強く言われた。(小生、乗鞍青年の家に転出のため実現しなかった。)

(編者注 この年は第5回訪中隊が派遣された年で専門委員長は訪中隊副隊長をつとめた伊澤さん、ほかにアリューシャン列島の登山自然調査隊にも高校の教員が5人:宮本、飯沼、舟田、浮須、大西:参加し確かに国内は空っぽ状態だった)

 1994年(平成6年)は富山大会で大日岳・立山連峰が会場であった。この時は近県からのお手伝いで、A隊の審査員を務めた。尚この年から成績発表は正式に順位を付けての発表になった。当然近県なので事前下見にも参加した。下見中、こんな機会にと立山雄山から大汝山頂を走って往復し、三千m峰を一山稼いだ。五色ヶ原を回って平の渡し場までのコースは変化に富んでいて面白い物の、そこから黒部ダムまでの水平道は頂けなかった。もう一回本番で通るかと思うと気が重くなった。タンボ平からの登りは朝露がきつく、ピーカンの快晴の中カッパ着用で登った。本番では夏休みが明けており、山岳部が無いのにと陰口を叩かれながら、学校を一週間空けた。登山行動初日に大日岳のC隊で選手の滑落事故があり、緊張が走ったが、幸いたいしたことなくて大会は続行できた。後で辻登山隊長がその時の思いを、あッ、これで登山大会は終わった。と感じたと語っていた。尚、辻さんはこの大会を最後に高校教員を退職してネパールへ行ってしまった。立山町大山町と行政の違いはある物の、出来るならば薬師岳も会場に加えて欲しかった、と感じたのは小生だけではなかったと思う。

 平成7年〜9年の3年間は、長野県高校教員を形式上辞して「国立乗鞍青年の家」に勤務していたため、総体登山からは離れていた。この間に高体連登山部の四〇周年記念式典が白馬で開催された。静岡事務局の金子さんから「大チャンが白馬にいるのだから記念式典は白馬でやりたい、現地実行委員を頼む。」と言われており、沼さんと実行委員をしていたが、急遽大西さんに代わって貰った。金子さんからは「敵前逃亡だ。」と呆れられた。記念式典には遠路高山から参加した。降籏さんの講演が印象に残った。

 (編者注 1996年は小生が県の専門委員長になった年でもあった。専門委員は、丸子時代も含め数年経験していたものの、全国大会はおろかまともに山岳部の顧問をしたこともない小生がいきなり専門委員長になるとは思ってもいなかった。ちなみに小生の顧問歴は美須々がはじめてで、これは1992年からのことであるから本当に顧問歴はお寒いものだった。なぜこんなことになったかというと、大さんの敵前逃亡、それにかわって地区の専門委員長をしていた今井さんの北信への転勤、顧問をしていない教員はその専門部の専門委員になれないという中信高体連の当時の縛りから経験豊富な飯沼氏や矢口氏が専門委員を辞さざるを得なかったなどの事情からであったが、中信地区の専門委員長を受けた翌年のこの年いきなり県の専門委員長、さらに全国高体連の40周年実行委員となんだかはめられたような感じで次から次へと役職が押し寄せてきた。そしてあろうことか、その翌年(1997年)には、なんと全国高体連の北信越ブロックの常任まで回ってくるありさまで、このころから高体連登山部にずっぽりはまってしまったのであった。もっとも、全国高体連の40周年の実行委員の経験が、実績もない僕のその後の山関係の仕事や人脈にも随分影響したことを考えると、大さんには本当はお礼をいわなきゃいけないのかも・・・。

編集子のひとりごと

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。久しぶりに山にもスキーにも行かないぐーたらでのんびりした正月でした。というか、実際は山関連のデスクワークに徹する日々で、山には行けなかったというのが正しいかもしれません。今週末(12日)に迫った我等が「信高山岳会の25周年祝賀会」のプレゼン資料の作成やしおりの準備、記念誌の校正(おかげさまで記念誌も無事完成)、そして中信高校山岳部の年報の編集作業(こちらは4日に脱稿し、原稿を印刷に回しました)などずっと山を感じながらストレスのたまる冬休みでした。さて、合同で合宿を組むということはこれから大いに進めていいのではないかと思います。12月には志学館高校と県ヶ丘高校が合同で耐寒ビバーク訓練をしたということも聞きました。みんなで山岳部をもり立てられるよう今年はそんな情報をどんどん伝えたいと思います。これから冬の楽しいフィールドに出るような楽しい企画がありましたら、どしどしご連絡ください。うまいものはみんなで食べましょう。松田さんの「四方山話」・・・なんだか注の方が長くなってしまいました。(笑い)私と大さんのつきあいも随分と長くなったなぁ。(大西 記)