不定期刊行            247号  2008.2.11

中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

2007年版 中信高校山岳部年報  bR1

中信地区の山岳部の活動をまとめた「年報」31号が完成しました。昨年は30号記念と言うことで、この活動に対して「長山協」から表彰も受けました。今年は北から「白馬」「大町北」「大町」「池田工業」「美須々」「深志」「県ヶ丘」「志学館」「木曽青峰・木曽(全日)」「木曽・木曽青峰(定時制)」9校10課程の高校の山岳部から原稿をいただくことができました。

国体で見事に入賞した大町、大町北の選手諸君の参加記や、インターハイ入賞の県ヶ丘の奮戦記、ほろ苦い結果ながらも来年への決意の感じられる志学館のインターハイ参加記。それ以外のクラブも夏山に、クライミングにと多彩な活動を繰り広げています。巻頭言には高体連登山部長の柏原先生の「魂の塊」を掲載。柏原さんはヒマラヤで逝った「加藤保男」と大学時代の同級生とのことですが、そんなことにも触れながら、興味深い内容の玉稿をいただけました。かわらばんに好評連載中の「松田大氏の大会参加四方山話も全文一挙掲載、さらには「かわらばん」からも高校登山のヒントになる記事を抜粋。生徒ばかりでなく、顧問の先生方の寄稿も読み応えがあります。

この中信地区の高校山岳部の「血と涙と汗と感動の」年報をなんと・・・儲けなし、カンパ金600円ポッキリ(太っ腹)でオワケいたします。読者の皆さんの暖かいお気持ちをお寄せください。ただし、郵送の場合郵送費は別に頂戴しますので、ご了承ください。前号でご案内した「山河酔夢」とセットでいかがでしょう!・・・ん?職権乱用?利益誘導?・・・私の年末の休みを削っての「奉仕作業?」に愛の手を・・・。

今年も御嶽山麓でスノーシューを体験しました

本来、寒いはずの松本もここ数年は暖冬傾向が続いていたが、今年は「大寒」のころより寒い日が続き、氷点下10度を下回る日が連続した。木曽高校アウトドア部では、1月28日に、昨年に続いて王滝村にある「名古屋市民おんたけ休暇村」の協力で、スノーシューの体験をした。事前情報では、今年は例年より雪が少ないとのことだったが、たまたまその4日前に降った雪と、さらにはその後の寒さの影響で、雪はしまりさらさらの好条件。今年もこちらの職員で我がクラスの生徒の保護者であるKさんに案内して頂いて、休暇村の中にあるスノーシューコースを歩く。休暇村の中と言っても笑うことなかれ。その広さは68万u、到底1日で歩き回ることは不可能だ。自然がそのままに残り、スキー場の喧噪からも離れた静かな山の中を、景色を楽しみながら、動物の足跡を追い、近くは御嶽、少し離れた乗鞍、さらには中央アルプスの屏風のような山並みを望み見ながらのトレッキングは、ひとときの幸せ。終わったあとは、「こもれびの湯」で身も心もほっかほかの優雅な一日。

松田 大氏の「大会登山参加四方山話」 その7

 1999年(平成11年)岩手大会にA隊で参加、メンバーは前年と全く同じで学年が進んだだけであった。雨飾での県大会は余裕でクリアーした物の、本番での成績は相変わらず振るわず、何とか40番台を免れるのが精一杯であった。楽しみにしていた岩手山は火山情報のためコース変更。話題の早池峰山ではオーバーユーズ対策で、携帯トイレを持たされた。この時も暑い大会であった。東北での大会には秋田、宮城、岩手と3回参加したのだが、何れも天候に恵まれ、猛暑にも恵まれた。

 2000年(平成12年)満を持して迎えた岐阜県の槍ヶ岳大会は県予選でリーダーがバテてお釈迦。なまじ体力的に心配がある3年生リーダーに情けを掛けたのが敗因。雨飾山会場の北信越大会に、監督としての初参加となってしまった。思えば北信越大会開催準備に奔走し、役員としては参加したことがあるものの、監督としの参加はこの時が唯一である。5月の北信越会場の下見の際、残雪の上から駐車場に飛び降りた拍子に両太股が肉離れ状態になり、以後2週間以上も歩行困難になるなどろくな事のない年であった。(編者注 この時の目撃者談。「雨飾」へ二人で下見に行き、快調に山登りを終えて下山してきた。最後に50センチくらいの雪渓の上から僕が最初に飛び降りた。ついで飛び降りた松田さんは「いててて。」と言ったきり暫く動けなかった。なんか冗談をいっているのではないかと思った僕が、そのまま立ち去ろうとすると「おい薄情だな。」と一言。思えば、松田さんがちょうど○才の大台を迎えた年のこと。「若い大西のまねして飛び降りるんじゃなかった」とも言われたっけ。今から8年前のことだから、そろそろ僕も気をつけなくちゃ。)そう言えば県大会会場下見での出来事、林道脇のヤマブキが満開で、小生が「この花の名前を云え、答えられた者は通って良し」と生徒等に問うたところ誰も答えられなかった。そこで同行の宮田先生が「太田道灌通ります」それに対し小生曰く「お通りください」この会話に生徒はキョトンとするだけであった。

 2001年(平成13年)九州熊本大会には男女で参加した。神戸までは車、そこから瀬戸内をフェリーで別府へ。さらに山越えで阿蘇入りした。フェリーの中から宮田さんと酒盛りで盛り上がり、阿蘇の宿舎のペンションでも飲み上げ、最終日の精算では酒代の方が宿泊費を大きく上回る有様だった。火山の阿蘇山は遮る物が無く、晴天に恵まれ過ぎ、当に火の国総体のキャッチフレーズの如くであった。秋田の今野さん(編者注 今野さんは昨年の「秋田国体」では実行委員長をなさいました。1月の「日山協新春懇談会」でお会いしましたが、ますますお元気でした。)が最後とのことで最終日のA隊監督団は大いに盛り上がった。男女とも成績的には振るわなかったものも、帰路の別府見物と合わせ思いで深い大会であった。

編集子のひとりごと

松田さんとは、雨飾にも何度も登ったが、思わずクスッと笑ってしまうような話題に事欠かない。一つは掲載記事の一件だが、こんなこともあった。この事件!の前々年に二人で県大会の下見で登った時は、鎌峠に車回しをしてそこに松田号を置き、キャンプ場に小生の車で戻ってそこから歩き始めた。梅雨時のこととて雨の中ではあったが、登りは快調。いつものごとく松田さんは怪気炎。ところが荒菅沢を越える当たりの松田さんの一言で一気に疲れた。「おい、大西チャン。車のキーお前さんの車の中に置いてきちまった。」・・・登頂を終え、周回コースで大網の方へ下り林道をタラタラ歩いて鎌峠にたどり着くと松田号が待っていた。しかし、僕らは動かせない。心優しき小生は、松田さんと二人でキャンプ場までの40分の道のりを辿ったのでありました。(大西 記)