不定期刊行 第251号 2008.4.1
中信高校山岳部かわらばん 編集責任者 大西 浩
木曽高等学校定時制
木曽街道踏破「寝覚床から野尻まで」
3月19日3人の生徒と共に木曽街道踏破の続きを行なった。今回は顧問は僕一人だったので、車回しのことで迷ったが、やはり全部歩くことが意味あると考え、後のことは置いておき、とりあえず木曽福島の駅から生徒を乗せて前回の終着点寝覚床まで移動した。天気予報では今日は午後から雨とのこと。しかし、出発時は雲一つないうらうらとした春の散策日和だ。
9:20寝覚床に車を駐めていざ出発。木曽八景の一つ小野の滝には10:27に到着。案内の看板には文人としても名高い「細川幽斉」や信濃の国の作詞者「浅井洌」がこの地を褒め称えたことばが書かれていた。確かに名勝には違いないが、僕にはこのちょうど対岸にあって我が木曽高のクライミングのホームゲレンデになっている「隠れ滝」の方がはるかに迫力があるように感じられた。最も世人の目が届かぬところに人知れず存在するところこそ、名にし負う「隠れ滝」の面目躍如といった所かも知れぬ。
ひたすら国道を南へ進むが、荻原の集落のところで国道から外れる。集落の入口に一里塚があった。集落を過ぎるとまた国道に戻る。10:30倉本駅を通過。そこからしばらく進んだところで「東海北陸自然歩道」の看板に従い、木曽川を渡り右岸を進む。渡ってすぐにあった二股の分岐点で川沿いに進む道を選ぶが、その道は発電所への取り付け道路で道が行き止まりになってしまった。しかしこんなことでひるんではいられない。100mほど上にある道に戻るべく、崖を登る。ところが、「東海北陸自然歩道」の看板に従って来たはずなのに、道は大きく木曽川から離れていく。看板もいつの間にかなくなり、ちょっと不安になって戻ろうか進もうか逡巡する僕に、ここで強い味方。地元
木曽川を渡り、今も昔の面影を残す須原宿にはいる。須原宿は、檜の大木をくりぬいて作った「水舟」と呼ばれる共同井戸があちこちにおかれ、風情を感じさせる。道幅は広く、まっすぐに続いている。ちょうどその中間あたりに面白い門柱を見つけた。そこには、「長野縣西筑摩郡
須原宿を出てからは、怪しい空模様と競いながら一路野尻宿へ。国道を通ったり木曽川左岸山の手の旧道を通ったりしながら、大桑の中心街を通り抜け、さらに歩を進め野尻宿に到着したのは13:40。ポツリポツリと雨が降り始めたが、ギリギリ濡れずに済んだ。時間的にはまだ余裕があったので、十二兼まで行くことも可能だったが、今日はここまでとし、野尻からは電車で戻った。僕だけは上松駅で下車し、雨の中をたった一人とぼとぼと寝覚まで、車を取りに2キロの道を歩いたというおまけつきだった。
松田 大氏の「大会登山参加四方山話」 その9
2006年(平成18年)は久しぶりに山らしいコースを歩けた奈良大会であった。予算が無いからと渋る教頭を説き伏せて下見に出かけた。佐藤さんにお願いして運転手を務めて貰った。下見の日は台風接近で雨の中現地に着いた。先着していた他県のチームはその日の下見は悪天候で難儀をしたようで、翌日からの行動が心配させられたが、何と台風は急旋回してしまい、3日間快晴の中奈良の山々を楽しむことが出来た。どうせ本番では歩けないからとコース外の山上ヶ岳にも足を伸ばした。しかし奈良は遠いと実感した下見の帰路であった。世界遺産の大会会場は混雑期を避けるため、開催時期が8月下旬であり、丁度夏休み明けの日が開会式。生徒も小生も学校を一週間休んだ。二日目の山中、徳島の監督が行方不明になる事件が勃発し、最終日がカットになった。この監督無事であったがただ者では無いらしく、この経験を徳島県内で面白可笑しく講演をしているとのことを、今年の佐賀大会で徳島の監督から聞き、腹立たしく思った。閉会式後生徒は先に帰し、総監督参加の大西チャンと高体連登山部50周年の記念式典に参加し、懐かしい面々との談笑に夜の更けるのも忘れて楽しい時間を過ごした。
編集子注 奈良大会は小生にとっても忘れることのできない大会だ。監督の行方不明により最終日の行動が中止になるというアクシデント。宿で夕食中にトラブルの発生が告げられてからのあの晩の緊迫した状況。夜半の数回にわたる招集。翌朝の待機、そして発見。その後の対応も含めて色々なことを考えさせられるできごとだった。
編集子のひとりごと
来週の土日は、日山協主催の「第4回山岳スキー競技日本選手権大会」が過去3回と同じ栂池を会場に開催される。会場が栂池と言うことで長山協では、北信越の各県の山協(新潟・石川)、岳連(富山・福井)とも連携をとりながらお手伝いをしている。競技として未熟な中での手探り状態での大会運営に加え、風や雪など毎年天候に悩まされながら、ここまで来た。今年はどんな大会になるか。気になるところではある。(大西 記)