不定期刊行            254号  2008.5.17

中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

GW3日間白馬三山連続登山

天気にも恵まれた今年のGWの登山は最高だった。信高山岳会の仲間と猿倉に定着して白馬三山をバリエーションルートから登るという楽しい3日間だった。5月3日は岡山からわざわざやってきた田中初四郎さんに、松田大、福島伸一、大西英樹、そして私という5人のメンバーで、山スキーで白馬鑓温泉から大出原、天狗のコルを経由して鑓ヶ岳に登頂。山頂から杓子沢を下り、途中長走沢へ渡り標高差1600mのダウンヒル。下る途中の双子尾根樺平には、WBNの三尾さんがご夫婦で幕営していた。朝5時に自宅を出て、7時に猿倉出発、途中鑓温泉の露天風呂で入浴も楽しみながら、BC帰着は午後5時。12時間行動というハードな一日だった。

翌4日は登攀組と山スキー組の2班に分れて行動。松田、福島、私の3人は主稜を詰めて白馬岳へ、山頂で大雪渓からスキーで登った田中、大西英氏と合流。僕らと同様に主稜を登っていたGDMメンバー(宮本、古畠、平塚、玉井)氏とも山頂で乾杯。好天の主稜は、「ガイド登山」や「未組織登山者」が大量に列をなし、まるでノーマルルートと化した感さえあった。4時20分に猿倉を出発し、11時登頂。

5日も登攀組と山スキー組に分れたが、私は福島さんと二人で杓子尾根を杓子岳へ。多少天候が下り坂だったこともあり、とりついたのは我々のみ、昨日の主稜の盛況ぶりからは一転、静かな山登りだ。意外と雪が少ない上に、入山者が少ないことも相俟って歩きにくく薮や雪の踏み抜きで、前日の「階段登り」の主稜の登攀よりも却って往生した。稜線に出たころ、山スキー組から「天候の悪化で中止した」とのこと無線がはいった。ちなみに、山スキー組は栂池から小蓮華に登り、白馬沢を滑降の予定だったのだが・・・。僕らも稜線に出る頃から少し降られたが、なんとか頂上まで抜けた。

最終日こそ山頂では眺望が利かなかったが、充実したバリエーション登山に満足した。標題の通りの「3日間白馬三山連続登山」は、僕にとっては久々にマジに?取り組んだ合宿だった。猿倉の標高は1230mだから3日間の獲得標高は合計でおよそ5000m、よく登りよく下った3日間であった。

時ならぬ大雪と恐ろしい雪崩の爪痕・・・センター講習会その1

5月の半ばというのに、我が家の西の窓から望む常念岳のピラミッドが雪をいただいて白くなった。「徳利をもった常念坊」が時ならぬ5月の雪で姿を隠してしまった。

先週、日本列島を襲った寒波は、北アルプスのかなり低いところでも雪をもたらした。そんな昨週末、山岳総合センター主催の「高校登山研修会」の講師をしてきた。入山時、扇沢駅から針ノ木沢を見て、沢を埋め尽くすデブリの雪の多さに驚いた。過去数年と比較して格段に雪は多く、本流をそのまま登って行かれる。こんなことは20年来で初めてのことだ。その数日前に入った「白馬界隈」ではそれほど雪が多いとは感じなかったので、この谷だけになぜこんなに雪があるのか、不思議な思いを持ちながらの入山となった。

講習開始のころから天気は下り坂。例年ならばすでに雪は堅くしまって、残雪期の芽吹きをみながらの研修会となるのだが、初日の講習を終える3時ごろから、みぞれっぽい雪が降り出した。夕方になると気温も下がり季節が逆戻り本格的な雪となった。雪は一晩中降り、朝になっても止むことはなく降雪量は10cmを超えた。天気予報で、多少の雪は予想はしていたが、これほどとは思っていなかった。

結果、2日目の研修は、雪崩等の危険が予測されるため、講師陣3人(私、今滝さん、河竹さん)の判断で中止、即刻下山と決定した。危険予知とは、日常生活の中でも要求されるが、身一つで大自然の中に入っていく「山」というシチュエーションに於いては、とりわけそれが重要だ。

テン場から雪渓を渡り、最初の堰堤を越えるところは雪崩の危険性が予測されたので、見張りを立て慎重に下る。危険地帯を過ぎ、帰りは例年と同じく左岸を扇沢に向かった。

その途上、岩小屋沢の出合で、見た景色は衝撃的であった。そこには恐ろしい雪崩の爪痕が残されていた。おそらく雪崩とそれに伴う爆風が引き起こした結果だろう。出合から沢を望むと、そこは刈り払いをすませたスキー場のようにさえ見えた。もちろんこの雪崩は昨日今日起こったものではなく、すでに10日程度は経過していると思われた。幅は100m以上、大木をすべてなぎ倒し、土捨て場へと横切る舗装道路は跡形もなく雪で埋め尽くされ、途中のコンクリートの小屋はそのまま横倒しにゴロンと流され、雪崩の末端は押し出した本流の対斜面を数十メートルに渡って登り、そこの木をも押し倒しながら、本流に沿って大きくカーブして斜面をえぐりながら暫く進んだところでデブリとなっていた。入山するときに、針ノ木沢本流を埋め尽くす大量のデブリに驚き、例年以上の積雪に驚愕したのだったが、その理由が氷解した。入山のときは岩小屋沢の反対斜面である右岸を進み、なおかつその時はガスで視界が無かったため、実は自分の足下のデブリの雪がこの巨大雪崩が運んだ雪だったということに気づかなかったのだ。

残念ながらカメラを持って行かなかったので、映像で示せないのは残念だが、自然の力、その恐ろしいまでのエネルギーにびっくりした。何年に一度起こるのかは分からないが、こういうこともあると知らされた貴重な体験だった。

編集子のひとりごと(四川大地震に思う)

中国四川省で起きた大地震の被害は、日がたつにつれ、その悲惨な状況が明らかになってきた。四川省は魅力的な多くの山を擁していることも相俟って、長野県山岳協会とも関係が深いが、とりわけ我が信高山岳会にとっては関わりが深い。1988年のこと、長山協主催、信高山岳会主管で、高校生を四川省大姑娘山(5025m)に派遣した。名付けて「第1回長野県高校生訪中登山交流会」。隊長は「信高」の創設者勝野順先生。この遠征で、16名の県内高校山岳部の生徒を含む総勢29名は、四川省登山協会の大きな支援を受けて、見事所期の目的を達成し、全員が登頂に成功した。その後この「訪中隊」は、1994年まで続けられ、四川省で4回、青海省で2回行われた。延べ95人の長野県内の高校生が、日本国内では経験できない「5000m級の山」に登山をし、同時に現地の人々とも交流をするなど文化的にも多くの成果を挙げた。私個人にとっても、この間の中国との関わりが今の私の登山に深い影響を与えているのは確かである。長山協としても急遽役員会を開き、山仲間として四川省登山協会になんらかの支援をと「募金活動を行なう」ことを決めた。近日中には取り組みたいと考えている。(大西 記)