不定期刊行            276号  2008.10.27中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

信高山岳会副会長「渡會意士」さんの死を悼む

この石彫は、「合一の碑」といって、木曽西高校と木曽東高校が木曽高校へと統合した1982年3月に建てられたものだ。作者は、抽象石彫では長野県の第一人者である「渡會意士(わたらいよしひと)」さんである。渡會さんは、長く県内の高校で美術教師としておつとめになった。そして、県ヶ丘、深志、美須々ヶ丘と生涯山岳部の顧問をなさり、信高山岳会の設立会員でもあり、ここ数年は副会長もつとめてくださっていた。その渡會さんが、先週金曜日にお亡くなりになった。退職後も悠々自適の生活の中で、本業の彫刻の世界はもちろん、奥様と里山を歩きながらバードウォッチングをするなど趣味の世界を楽しまれておられたが、病魔に冒されての死。享年68、長寿社会の今日、あまりにも早すぎる死だった。

亡くなる直前の先週の火曜日、奥様から電話があり、「渡會の作品集を作るという話が出てきているのだが、木曽高校の合一の碑の写真がみつからないので、お手数でも撮ってきていただけないでしょうか?」と依頼を受けた。

渡會さんが昨年秋に胃癌の診断を受け、すでに手術もできないほどに進行していて、最後の手段として、今年にはいってからは抗癌剤治療をしておられた。しかし、夏にお見舞いにお訪ねした時には、体調も少し回復し、ご自分で作った野菜を「こんなにできても、家では食べる人もいないので。」と逆に沢山いただいて帰ってくるという一幕もあった。こうして野菜をつくったり、ドライブに出かけたりもできるようになって気晴らしもでき、ここ数ヶ月は調子もよいと聞いていたので、最後の気力をふりしぼって作品集に取り組んでおられるのかと、ほっとしながら、この写真の他数点を撮り、週末にもお宅に伺おうと思っていた矢先の訃報だった。

実は私は渡會さんとは因縁浅からぬものがある。渡會さんは私が高校2年の時に赴任してこられた恩師でもあり、私が同じ教師となってからは前任校の美須々ヶ丘高校では同時に赴任した同僚でもあった。そして、ご子息は私の美須々ヶ丘高校時代の教え子であり、その彼が大学時代の教育実習では私の娘のクラスを担任するという何とも不思議な関係でもあった。何より、渡會さんは生涯高校山岳部の顧問としても活躍され、その方面でも私にとっては、尊敬している大先輩だった。

私の高校時代には、小柄な渡會さんの指定席は、生徒の通用門の脇であり、そこでいつも手ぬぐいを頭に巻いて、青い前掛け姿で鑿を持って石に向かっていた。職人にありがちな気むずかしさはなく、誰にでも温かい笑顔で接していたのが印象的だった。美須々の時代には、「たらちゃん、たらちゃん」と生徒からも親しまれ、まさに好々爺という雰囲気のにじみ出てくる愛すべき人生の先輩だった。私が木曽高校に転勤した後も、たまたま住まいが近いこともあって、随分かわいがっていただいた。非常に几帳面で誠実な渡會さんが、退職をする折には、それまで自身が関わった高校の山岳部の記録や高体連関係の書類、また中信安全登山研究会の年報などをすべて整理され、「私が持っているより大西さんが持っていた方がお役にたつだろうから」とすべてお譲りいただいた。

石彫家としての渡會さんの作品は、シンプルで最初はとっつきにくく難しい印象があるのだが、見ているうちにその気持ちが伝わってくるような温かい作品が多いように思う。信高山岳会の「旗」や今年刊行した「創立25周年記念誌の表紙」も先生が描いて下さったものだが、いかにも渡會さんらしい図柄で、シンプルな中にも味わいのあるものだった。思えば、この表紙を依頼したのが昨年の9月のことだったが、このときすでに病魔は渡會さんの体を蝕みつつあった。10月できあがった記念誌の表紙絵には「常念坊ととっくり」という題名がつけられていた。その所以を伺うと「信高山岳会はのんべの山岳会だから表紙もとっくりをもった常念坊がおあつらえむき」とのことだった。もう先生と山で酒を酌み交わすこともかなわなくなってしまった。昨日行われた告別式、葬儀には、美術関係者、学校関係者、教え子、山岳関係者など多くの人が参列し、早すぎた死を惜しんだ。

編集子のひとりごと

「私の家の彼方此方に先生から頂いた年賀状が飾ってあります。鳥や蝶など、先生らしさが満ちあふれた版画です。それも七月に頂いた近況を伝える手紙のひまわりの版画が最後になってしまいました。」昨日の渡會さんの葬儀の際に信高山岳会の会長松田大さんが読んだ弔辞の一節です。渡會さんからは、私のところにもそのひまわりを描いたはがきが届きましたが、それには「五月に種をまいたヒマワリも今では2米を越し、毎日元気をもらっています。ごぶさたしています。その節は大変ご心配をおかけしました。早くお祝いができるように治療入退院をくり返し頑張っています。夏山の報も気になり、上高地や美ヶ原にも出かけました。どうぞご自愛下さい。」と書かれていました。まさにこれが遺作になってしまいました。謹んでご冥福をお祈りいたします。(大西 記)