不定期刊行            278号  2008.11.06中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

永らく憬れた六百山についに登った 前置き編 (松田 大)

10月18日、松田さんと大西は「六百山」に行きました。以前から行きたいと思っていたのですが・・・。僕よりももっとずっとこの山に恋焦がれていた人が「大」作を書いてくれましたので、紹介します。それでは隠れた名峰の登山記をどうぞ!(編者注)

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六百山、山登りをする人の多くが知っている上高地の峻峰。

小生がその峰の存在を認識したのは、もう40年以上も昔の高校生の頃のことである。目的は良く覚えていなし、時期も良く憶えていないほどあやふやな事であるが、一人で上高地を訪れ日がな一日散策をした思い出がある。(写真でも撮りに行ったのかな?)その時田代池付近から東に望むそそり立つような岩山が妙に印象に残った。後で知ったことであるが其れが六百山であった。当然当時は山登りなど趣味の範疇ではなく、登山の対象などとは夢にも思わなかった。時は過ぎて、山もぼちぼち歩くようになり、当時小梨平にあったベースキャンプに遊びにも行くようになった。その頃は今のように何でもありの時代ではなく、登山が若い人の楽しみの一つであり、小梨平には各高校や大学を始め、各市町村の山岳会(青年団が主体)のベースキャンプが犇めいており、我が三郷村も立派なインデアンテントを構えていた。そこへ連れて行ってもらった際など、酒を飲みながらの席で、先輩諸氏に聞くともなく教えられるともなく周囲の山々のことを教わった。その中で穂高の峰々の話の他に、霞沢岳や六百山のことも良く話題に揚がっていた。やれルートは無いが、無理矢理沢を詰めて登っただとか、ザイルがないので途中であきらめただとか、云々であった。そんな話を聞く中で、登ってみたいという気持ちはあるものの、当時の小生の技量では歯が立ちそうもないと諦めていた。他にも登りたい山が多い中で、六百山のことは次第に意欲の片隅に追いやられていった。上高地を訪れた(通過した)回数は数え切れないほどだが、存在すら気がつかないことも屡々であった。時として思い出したように、いつかは登ってみたいという気持ちが沸き起こるものの具体化までには至らなかった。

数年前のヤマケイに六百山の紹介記事が載ったことがあった。その時も、あーそんなに無理せずにも登れるのだなーと思ったくらいだった。信高山岳会の例会山行計画を立案する中で、話題に上ったこともあるが、其れまでのことであった。大西さんとも何時か登りたいなぁー,とよく話していたが、じゃー何時!にまでは煮詰まらなかった。

そんな中で信高山岳会の秋山例会の折、話が急展開。10/18(土)空いているから行こうという話がまとまった。以前なら登山ルートのない山へ登る場合の情報集めは大変な作業であるが、今はネットで一発である。調べてみると結構多くの人が行っていることがわかった。踏み跡もあるようだし、所要時間も6〜7時間程度と秋の日帰りには格好の山であることがわかった。ただ標高差が約1000mと想像以上のことも判った。

 山は楽しまなくっちゃ、と2、3の人に声を掛けたものの、結局大西さんと2人だけで登ることになった。(以下、次号)

木曽高定時制アウトドア部、阿寺川の散策と焼肉

10月30日は、木曽高校定時制アウトドア部の諸君と阿寺渓谷の散策をしてきた。紅葉がちょうど見ごろで、青空をバックにした赤や黄の色とりどりの紅葉の葉とヒノキやサワラの緑が、エメラルドグリーンの水面と花崗岩の白い岩に映しこまれた様は見事だった。およそ6km弱の遊歩道は、かつての森林鉄道の軌道のあとでもあるのだが、沢の左右からはいくつもの滝が本流へ豊富な水量をもたらし、本流はときに早く、ときにゆったりと、またあるときには滝となって流れていく。

このあたりのヒノキ林は明治27年に植林されたものだという看板が途中にあったが、まさに森林は百年の計。森を育てることは、人を育てる「教育」ということと同じで、スパンの長い仕事なのだなということを感じさせる遊歩道だった。森林行政も教育行政も貧弱なのが、今の日本じゃないのか、このまま行ったら大変なことになる、そんなことも思いながらゆったりとした時間を過ごしてきた。

川沿いの道をゆっくり歩いて、腹ごなしをしたあとは、「砂小屋キャンプ場」で、焼肉と相成った。今日の参加者は、M君、Kさん、Fさん、Yさん、Hさんに顧問の河上先生と私の7人。こういうところに来るとそれぞれの人がそれぞれの役割を自分で心得、火の番をしたり野菜を切ったりと自分で手を動かすようになってくる。まさに自然それ自身の持つ教育力である。

キャンプ場に到着しておよそ30分で焼肉の準備が相整い、K部長の「乾杯」の発声で戦闘開始。美味しい焼肉に、美味しい空気、美しい景色が色を沿え、食欲も進んだ。暑くもなく寒くもなく、穏やかな天候の下、快適な一日だった。

編集子のひとりごと

木曽高校定時制アウトドア部の部員の1人Hさんは63歳。中卒金の卵として、大手ゼネコンで企業戦士として勤め上げ、本人曰く人もうらやむ出世と社会的地位も得、定年退職を迎えた後、昨年本校に入学してきた。そこは「不登校」や「ひきこもり」、「軽度発達障害」、「親の事情によって外国からやってきた生徒たち」さらには「中退後の学び直しを求める生徒」など様々な生徒が身をおいている異質の世界だった。ここで行われている「教育」は、競争を強いられる会社に長く身をおいた彼の目から見ると、入学当初は、かなり異質なモノと映ったようである。「この生徒たちは!」・・・もどかしさを殺して、ルーペ片手に勉学に励む彼は悩んだという。・・・そんな彼が今年は様々なアウトドア部の活動に積極的に関わってその時々にいろいろな話をしてくれる。週3回の人工透析を続けながら、40年近く前に置き忘れてきた青春を楽しんでいる彼から教わることしきりである。(大西 記)