不定期刊行            306号  2009.07.14中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

「高校生に夢を!」 その4 富士山で合宿

新疆行きについてはどうなるかわからないが、できることだけはやっておこうということで、偵察隊のメンバーで週末、富士山に登ってきた。今回の偵察では、5300mくらいの高度まで行く予定であり、BC予定地に入るまでにも4000mを越す峠を3つ越えて行くことから、日本で最高所の「富士山」で高所に順応した身体を作っておこうというのが目論見だ。梅雨時なので、雨に降られることを覚悟して行ったのだが、やはり私の行く先では雨は降らなかった・・・(笑い)。今年は残雪が多く、開山後もしばらくは入山規制があったという富士山だが、伝えられるとおり残雪が多かった。剣ヶ峰の北側の稜線にはべったりと雪が残っており、一般の人はお鉢めぐりができない状態だった。(我々はしっかり一周しましたが・・・。)

ところで、長山協医科学委員会では今年度より登山者の視点で「より困難な登山をする為の医科学知識の普及につとめ、協会内外で運用する」ために、「高所登山における基礎的なデータ収集」を始めることとした。そのためのガイドラインを定め、今後データ集積、具体化していく予定であるが、今回その調査の足がかりにできればということで、医科学委員会担当理事の杉田浩康さんも同行してくれることになった。したがって今回は「血圧」や「血中酸素濃度」、「脈拍」などの医学的なデータもとり、自分たちの身体がどう高所に反応するかも調べながらの登山であった。願わくは、ここで得た順応が、新疆でさらにどのように影響するか、踏み込んだデータがとれればと思うのだが・・・。

11日9:00集合場所の諏訪湖SAで合流。御坂峠を経由してスバルラインを登り、11時に、5合目の駐車場着。駐車場はすでに満杯で車を停めるのに30分ほど待たされた。フィジカルデータを取って12時30分に出発。そのあとも休むたびにデータをとりつつ、ゆっくりと時間をかけて山頂を目指し、富士額に出たのが17時50分。雨こそ降らなかったものの、山頂では猛烈な風が吹き、まっすぐに立っては歩けないほど。夜はその風がツェルトを叩く音と想定外の寒さのためほとんど眠れなかった。吉田大沢上部の岩陰のツェルトの中で、その風を避けながら、眠れない僕は一つの遭難を思い出していた。

・・・その日の富士も山頂には猛烈な風が吹き荒れていた。2001年12月、急変する天候の中、吉田大沢を登った長山協のT君とIさんは、山頂に抜けたものの岩陰で力尽きてついに生きて帰る事はなかった。朝、杉田さんに二人が発見されたという岩の横に案内してもらい手を合わせ、冥福を祈った。亡くなったIさんは杉田さんと同じ山岳会L&M所属。GDM所属のT君は小生のアリューシャン遠征のときの仲間である。さらに僕は、二人とは同時期(1990年代)に国体に関わっていたこともあって浅からぬ因縁がある。二人の発見された場所は、岩陰とはいえ山頂を吹き荒れる風の前に、なんの風除けにもなっていなかった。そんなところで海外遠征を夢見て倒れた彼らが、どんな思いで死んでいったかと思うと、今でも胸が痛くなる・・・。

 
彼らの冥福を祈った後、お鉢めぐりをして下山。それにしても、富士とは「化け物」である。海外の高峰へ行くときの富士詣は一つの約束のようなもので、僕はこれまでに10回以上登っているが、かつてに比べ確実に登山者が増えているような気がする。外国人の多さ、ツァー登山の全盛、登山口から人の途絶えることのない富士は、日本のほかの山とは明らかに異質である。

とまれ、いざ行かれるようになったときに困らないようにと、こんな風に準備万端整えて着々と新疆への渡航準備を進めている。装備も食糧もそろえ、輸送計画もぬかりないつもりでここまで来た。しかし・・・肝心の「新疆ウイグル」の情勢は未だ不安定でどうなるかわからない。外務省からも「この地域への渡航を計画されている方は、現地の情勢が落ち着くまでの間、不要不急の渡航を控えることをお勧めします。」との情報が出されている。

 
治安の悪化が伝えられてから昨日で一週間が経過した。当初13日が期限と言われていた航空券の発券手続きを17日まで延ばしてもらって、現在最終段階の情報を集めているところである。ギリギリのタイムリミットまで、毎日情報収集の日が続く。どうなることやら。

「高校生に夢を!」 その5 断念・・・しかし、夢は終わらない!

どうなることやら・・・。と書いたところで、西安の郝さんと電話連絡がついた。結論的にいうと、今夏の新疆行きについて最終的な結論は「断念」せざるを得ないということだ。郝さんにヌルさんから、現状では「軍の許可がおりない」という連絡が入ったとのことだった。郝さんは土曜日に、ヌルさんからその旨のメールが届いたので、僕のところにメールを転送してくれたということであったが、未着である。もしかすると、新疆からのメールの転送だからということで、カットされているのだろうか。それはともかく、残念なことになったのは間違いない。

まだ「信高山岳会」として正式に決定したわけではないが、「山に入る許可が取れない」以上、偵察の意味はない。善後策は今後練らねばならないが、とにかく7月25日出発の可能性はなくなった。なんとも無念である。しかし、夢はまだ終わったわけではない。

編集子のひとりごと

先々週、登山研修所に出かけたときのこと。講師の一人に飛騨山岳会の瀬木紀彦さんがおられたが、その瀬木さんからありがたいことばを頂いた。曰く「大西さん、前回発行(5月末)の長山協ニュース『やまなみ』の記事を見て俺はうれしかったよ。ありがとう。」と。きょとんとする私に瀬木さんは「巻頭言の一文の中で『飛騨山脈』って書いてくれましたよね。我々にとっては当たり前のことだが、ああやって記述してくれた。しかも『騨』の字も旧字(ちなみに小生のPCには旧字がない。悪しからず。)だったし。」と続けられた。「やまなみ」に、巻頭写真とそれに寄せる一文を求められた僕は、その眺望の素晴らしさを伝えたくて2月に赤羽さんと鉢伏山に登ったときの写真にそえて「日本一の展望台」と題する一文を書き、その最後を次のように結んだのだった。「・・・折しもその日噴火した浅間は白煙を高く噴き上げ、諏訪湖の先には、八ツと赤石の山なみを左右に従えた富士が気品を保っていた。四囲すべてに目を奪われたが、圧巻は、眼下の松本平を挟んだ飛騨山脈の一幅の屏風の如き大パノラマであった。眺めて飽く事なく、究極の贅を極めたひとときであった。」と。瀬木さんに読まれていること自体、想定外だったが、ちょっとした一言で私の思いも伝わったのかと思うと嬉しくなった。(大西 記)