不定期刊行            309号  2009.08.05中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

福島の三山に連続して登ってきました

8月1日から3日まで「日高教定通部」の全国定通教育学習交流集会が福島県で開催された。せっかく長駆福島まで行くのなら、集会の終わった後、2日くらい放浪して山登りをしようと計画し、学校長からも研修として認めてもらった。登ろうと思ったのは、「安達太良山」、「西吾妻山」、「磐梯山」の3山。いずれも百名山であるので、ただの山稼ぎかと思われる向きもあるかもしれないが、これらの山を選んだのにはそれなりに訳がある。今回の福島行きそのものも急遽決まったことだったので、付随的なこの登山についても事前にそれほど計画をきちんと立てたわけではなかった。知らない地区にそれほど前準備もなく登るということで、情報を得やすい山というのが第1条件だった。だから百名山はその条件に適った。そして第2は僕がまだ登ったことのない山であること。その点で僕はかつて福島国体の時に、会津駒と浅草には登ったことがあったので除外した。第3に車を使うので、縦走はできないが、それぞれの山に登ったという実感を得たいとも考えた。こうして計画した3山は、距離的に近いところにありながら、それぞれが独立した山であり移動にも便利である。そんな理由から、当初予定では、4日に安達太良山と西吾妻山に登り、5日に磐梯山に登って帰って来ようという予定を立てた。

その1 安達太良山――3日の会議が終わったのが、12時だった。今日一つ登っておけば次が楽になると考え、午後ではあったが足慣らしにと早速安達太良山へと向かった。標高1700mのこの山は東斜面にはスキーゴンドラがあり、これを使うと「なんちゃって登山」が可能である。13時、ゴンドラに乗った。しばらくは五葉松に囲まれ整備された木道を進むが、そのうちにシャクナゲやササなども出てくる。アキノキリンソウがもう咲き始めていた。13時45分には俗に「乳首山」とも呼ばれるその山頂の突起の上に到着。安達太良連峰は、南北に和尚山から鬼面山まで1400mから1700mほどのいくつかの山がたおやかに連なっているが、僕は山頂から鉄山に回り、登った尾根より一つ北の尾根を下った。こちらの道は中腹に温泉(くろがね小屋)あり、高山植物咲く沢あり、灌木の茂った勢至平と呼ばれる平ありと、楽しめた。しかし、下部の赤土のぬめぬめした滑りやすく歩きにくい道には閉口した。

安達太良山は万葉集にも詠まれ、高村光太郎に「阿多多太良山の山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ。」(あどけない話)「あれが阿多多太良山、あの光るのが阿武隈川。」(樹下の二人)と謳われて広く知られている。下山したのが15時、山麓の岳温泉で汗を流した後、二本松に下り、智恵子記念館へ向かう。記念館は4時半までということで、記念館そのものはすんでのところで見学はできなかったが、智恵子の生家の造り酒屋を外から見学、さらにその背後の智恵子の杜と名付けられた小高い丘に登り、「樹下の二人」で謳われた通りの景色の阿武隈川と安達太良山を望んだ。

その2 磐梯山――帰りのことも考えて、磐梯山を最後、2番目に登る山は西吾妻山にしようと、山形県境の西吾妻山の登山口に移動した。西吾妻山も福島県側のスキー場から登ろうと計画していたのだが、現地に到着してみるとゴンドラの始発は8時半とのことだった。夏のこと故、その気になれば5時前に歩き出すことも可能である。そこで、最初に磐梯山に登れば一日のうちに2峰登るのも可能ではないかと目論見、計画を変えて、磐梯山の登山口である八方台の駐車場に車を移動することにした。車中泊の気楽さだ。道路沿いではあるが森の中の駐車場には、僕以外誰一人おらず静かな一夜であった。

4時半、ウグイスの声で目覚めた。5時10分にブナ林に囲まれた広い登山道を歩き出す。5時30分、中の湯。情報では自炊素泊まり可能と言うことだったが、営業している感じはなく、小屋前のコバルトブルーの露天風呂も温度はかなり低かった。ここの森は明治時代の噴火のあとの森だからだろうか、森全体が若い感じがする。次第に高度をあげると景色がよくなり、裏磐梯の桧原湖などが遠望できるようになってくる。トラバース気味にいくつかの沢を横切りながら次第に高度を上げていくとやがて弘法清水とお花畑の分岐。やや回り道となるが、お花畑は湿原となっていて気持ちのいい平である。ここから弘法清水へ回り込み、最後の急登を登り切り、6時35分に山頂に出た。猪苗代方面は雲海の下だったが、安達太良山とその向こうに広がる阿武隈山地、北の吾妻連峰、西には会津や尾瀬の山がよく見えた。往路を引き返し、8時にはこの日最初の山を終了。そのまま山形県境のデコ平スキー場へと車を走らせた。

その3 西吾妻山――西吾妻山は吾妻連峰の最高峰である。深田久弥自身は百名山では、「吾妻山」という名でこの山群を取り上げているが、「これほど茫漠としてつかみどころのない山もあるまい。・・・人はよく吾妻山に行ってきたというが、それはたいていこの山群のほんの一部に過ぎない。」と言っている。だから小生とて、連峰最高峰の一峰に登ったからと言って吾妻山に登ったなどと言えないのは承知の上での登山であった。

まさか、始発前に磐梯山に登ってきたとは誰も思わないだろう。8時半に動き出したばかりのゴンドラに、少し乗り遅れたような顔をして8時45分にゴンドラに乗った。終点の標高は1390mなので頂上までの標高差は約700m。9時スキー場の最上部のゲレンデをリフト一本分歩いて登った後、西大巓から南に派生している尾根にとりついた。さっきまでの磐梯山の林に比べるとやはり森自体が古い感じがする。10時20分、西大巓到着。ここは三角点もあり見晴らしもいいが、ややガスが上がってきて時折視界が遮られるのが残念だった。そこから鞍部へ下り、西吾妻山へと縦走する。西吾妻山の頂上直下は、東北や上越の山特有の大きな湿原となっていて、池塘が点在していた。こういった感じは長野県の山にはないが、登りついて広がるこういう雰囲気が僕は好きだ。驚いたことに東北地方はまだ梅雨明け前だというのに、もうチングルマは花を終え、ワタスゲのそれも秋の感じであった。夏はどこへ行ったのか。頂上に着いたのは11時25分。樹林に覆われた頂上からはなんの眺望もなかったが、むしろそのことが僕に吾妻連峰の山の大きさを感じさせた。

編集子のひとりごと

行きは土曜日だったので、高速代は1000円だったが、帰りは平日。普通に取られるのがなんだか妙に癪に障ったので、会津坂下に出て只見、六十里越、魚沼、十日町、飯山、長野、松本と「下道」を帰ってきた。只見からは、福島国体のころよく通った道でもある。金がなくよく下道を夜通し移動しては錬成したものだった。田子倉湖脇の浅草岳登山口も懐かしく、今は昔の物語を思い出した。少年は縦走二本に踏査もあって、一日に二回も三回も山に登ったっけ。錬成は大変だったけれど楽しかったなぁ。(大西記)