不定期刊行            314号  2009.08.30中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

木曽青峰高校の夏山 上高地から槍沢へ――三村先生からのレポートーー

信州の「夏山」はやはり、槍か穂高の頂上に生徒を立たせてやりたい、というわけで、本校全日制の山岳部(2年男子3人と顧問2人)で、8月9日から上高地・槍沢キャンプ場泊・槍ヶ岳往復という2泊3日ゆったり日程の予定をたてて出発した。6月の県大会では上記の3人は、直前に腕骨折、風邪で2人不参加、残る1人も黒姫山から下山後、発熱で戸隠から急遽帰宅という「ササラホウサラ」の状況だったので、この夏はなんとか、日本を代表する名峰の絶頂へ連れて行ければと考えていた。私も、その巨大な岩峰をよじ登り、3180mの尖峰に立つたびに「人生は変わらないまでも、ものの見方は変わる」との思いを生徒に感じてもらえればと思っている。その頂は、壮大な展望とともに生徒たちにこの上ない充実感と、これからの彼らの「ものの見方」に何らかの新しさを付け加えてくれるものと期待して河童橋から5人、小梨平をぬけて元気良く歩き出した。

さて、天候だが、雨は降っていないものの、真昼だというのにまるで夕方のような雰囲気。明神、徳沢、横尾と、時おり顔を出す明神岳や前穂高の岩壁を眺めながら順調に進んだが、途中、一ノ俣あたりですれちがったおばさんたちの団体から「不穏なお言葉」をたまわってしまった。「キャンプ場に泊まるのか? テント張るところなんかねえぞ!」いやな胸騒ぎがしだいに大きくなる。このあたりになると生徒らの足取りも重くなりだし、槍沢ロッジでは「へたれ」の状態になってしまった。日頃ウェイトトレーニングをやれ、と他の部活から言われていたのを本人たちも痛感しただろう。ロッジからババ平のキャンプ場までが思いのほか遠く、空はすぐにも泣き出しそうで気があせる、あせる。そして、おばさんのご託宣のごとく、今日の目的地にはまさに立錐の余地なきテントの洪水、通路さえわからなくなっていた。遅れてきた者はしかたがない、槍沢の川原の水音近いところにようやく平地を見つけてテントをふた張り、降り出すであろう雨と競争で、夕食の準備にとりかかる。本来は生徒が悪戦苦闘、四苦八苦してやるべきところ、一分一秒をあらそう状況なので、不本意ながら、私が手を出して野菜を調理し、「麻婆ナス定食」をこしらえた。

この間も周囲の断崖にかかる雲は刻々姿を変え、天候の悪化を告げていたが、どうにか食事中は小雨ですんでほっと一息つくことができた。しかし、夜間の増水があれば、こんな所にテントを張るのは「愚の骨頂」だ。びくびくしながら寝袋の中に入ったのもつかの間、午後8時41分、それこそ滝のような音を立ててついに来るべきものが来た!テントを打つ大粒の雨音が緩急をつけながら一晩中つづく。沢音もボリュウムを上げてくるし、足もとあたりからじわじわと浸水してくる。ほとんど一睡もできない状況で10日の起床予定時刻午前2時をむかえたが、状況は変わらず、北方の槍沢上部は夜目にも白い濃い霧に覆われている。5時まで待ったが、南方海上の熱帯低気圧がなんと、きのう台風に「昇格」してパワーアップしたとの情報と、いっそう激しくなる雨の中、もう一人の顧問の田口先生と相談して今日の登頂は断念し、小梨平まで下がることにして、テント撤収。生徒たちも経験のない一夜を体験し気力・体力とも消耗していたが、少しでも道具を濡らさないように指示して7時30分には歩き出すことができた。見上げれば、雨に煙る周囲の氷河地形の槍沢大岸壁からは、きのうまでなかった幾筋もの滝が出現しその轟音も聞こえてこようというもの、水かさを増した沢沿いの道を雨に濡れていよいよ重くなった荷物を担いで、ぬかるみに足を取られながらようやく横尾までたどりついた。空はいくぶん明るくなったが、白い雨筋が糸を引くように降りつづけている。後でわかったことだが、兵庫・岡山で20人以上の洪水犠牲者がでていたのはちょうどこのころであった。

槍ヶ岳に登ることはできなかったが、どの季節にも起こりうる自然の猛威というものを目で見、音で聞き、肩にくいこむザックの重さで体験することができた。徳沢でようやく雨があがり、明神池では雨具を脱ぐことができて日光のありがたさを実感した。この日、小梨平に泊まり、あす岳沢か焼岳に登ろうと生徒に水を向けてみたが、もう水はこりごり、乾いている荷物は何もないし、なにより風呂に入りたいということで、帰途につくこととなった。せっかく、木曽からはるばる、上高地という登山愛好者には「垂涎の地」に来たのだからとねばってはみたものの3対2の多数決。途中、沢渡の上高地ホテルの源泉かけ流し露天風呂が、一昼夜降り込められた身にとって爽快この上ないものであったのはいうまでもない。

南極観測隊に参加して 第49次日本南極地域観測隊越冬・環境保全担当 赤田幸久

偶然に訪れた幸運

そもそも南極観測に関する知識は皆無に等しく、南極といわれて思い浮かぶのは皇帝ペンギンとビンソンマシフくらいのもので、自分には全く無縁の世界だと思っていた。

2006年7月下旬、チベットへ遠征登山をするためのミーティングを開いた。その席に長山協の柳沢会長をお招きし、色々とアドバイスを頂いていたのだが、どういう話の流れだったか、南極の話題になった。確かフランセスアッシュクロフトの著書「人間はどこまで耐えられるのか」の話題がきっかけとなり、極地、そして南極観測の話へ発展したのだと思う。その時、柳沢会長のお話をお聞きして、初めて南極観測隊の概要について知ることになった。そして、私の心の中に南極行きの火が灯ったのもその時であった。その翌日、常念小屋で偶然2冊の本に出会った。国立極地研究所の神沼先生から常念小屋に贈られた「南極情報101」と「南極の四季」である。どちらも面白くて、南極に対する私の好奇心を膨らませてくれた。とりわけ、ボストーク基地における−88.3℃という気温は驚異であり、「うんと寒いところで小便したらどうなるのだろう?」という子供の頃の素朴な疑問が頭に浮かんだ。やがて「これはもう自分で行って確かめるしかない」という強い気持ちに変わっていった。

2006年9月下旬、チベットへ向けて出発する1週間前に必要書類を提出した。そして、帰国後12月初旬に極地研での面接、翌1月に身体検査へと進んだ。南極観測の概要をはじめて知ったあのミーティングから、たった6ヶ月である。その間に自分の中に新たな目標が生まれ、そして急激に進展したことは今振り返っても不思議な気がする。2007年7月、極地研での勤務が始まってから知った事だが、何年間もチャンスを待ってようやく隊員になられた方も少なくない。その時、改めて自分の幸運を実感した。

編集子注)南極越冬隊に参加された赤田幸久(CCA所属)さんから玉稿をいただきました。何回かにわけて連載します。みたことのない写真も多数登場。乞うご期待。