不定期刊行            325号  2009.10.14中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

まずは「はじめの一歩」・・・長山協ジュニア登山教室

10月10日、「長山協ジュニア登山教室」を開催した。昨年秋の長山協キャンプでの傘木さんとの話以来、日山協のジュニア情報交換会(2月)での情報収集、広島のわんぱく登山部の視察(6月)、長山協理事会での検討など準備をしてきての第一回目の開催。PRの仕方の問題なのか、期日の問題なのか、はたまたこういった取り組みそのものが包含する問題なのか・・・現実には直前までなかなか参加者が集まらず心配だったが、それでも5名の小学生が参加してくれた。少人数であってもまずは、「はじめの一歩」ということで、とにもかくにもやってみようということで実施した。参加したのはいずれも女子で5年生2人、3年生2人、1年生1人。トモちゃんは1年生だというが、爺ヶ岳にも登ったことがあるということで参加を認めた。講師はカッサンこと傘木さんを隊長に、ザックさんこと嶋崎孝さん(ジュニア委員・山岳会グーテンターク)、カヨちゃんこと横内佳代さん(信高山岳会)、それに小生があたった。

7時大町に集合、七倉まで移動し、タクシーに乗り換えて入山口の高瀬ダムに向かった。台風一過の晴天を期待したのだが、北から寒気が入り込んでやや不安定な天気という予想である。しかし、朝は青空が広がり爽やかで気持ちのいい出発となった。

タクシーを降りるとすぐに子どもたちが目をつけたのは道ばたに生えている「ホコリ茸」。びっしりと生えているのを見て興味津々、おもしろがって踏みつぶしている。安全だけには配慮しつつできるだけ子どもたちのやりたいようにさせながら、カッサン先頭、最後尾を小生という最低限の取り決めをして出発する。突然立ち止まってドングリを拾う子ども。そうかと思うと急に走り出したり、歌を歌い出したり。松本市内や安曇野市内の大規模な小学校の児童と全校生徒が51人しかいない長野市大岡の小学校の児童が互いに自分のところとの違いを聞いて驚いている。うち解けた子どもたちは、思い思いの話をしながらダム横の林道を進む。登山道に入っても、子どもたちの様子は変わらないが、ぼつぼつ飽きてきたかなという11時少し前、予定より若干早く湯俣山荘に到着。

予想外の行動をすると子どもたちの行動にビックリしていろんな発見があったとカヨちゃん。ジュニア委員としてクライミング以外でこういう活動があれば、今後も喜んで参加したいとザックさん。それぞれに子どもと適当な間合いをとりながら、無事に到着した。早速カッサンが用意してきた野菜をそれぞれちぎって焼肉の用意。思い思いの場所で弁当を食べながら焼肉をつっつくと一気に話ははずむ。

腹一杯になったところで、わき出している温泉を掘って足湯入浴と決め込んだ。子どもたちは山荘のいわゆる「ぼっとんトイレ」が珍しいのか、何度ものぞきに行く。露天の温泉にたまった湯の花を一生懸命すくう子ども。温泉では猿との遭遇もあり、子どもたちのテンションは一気にあがる。もう少し・・・という子どもたちの声に、心を鬼にしてカッサンが出発の合図。片道約10km、往復20kmの道のり、最後は少し大変そうだったが、拾った棒を杖にしたり、だらだら歩いていたと思うと突然走り出したり、子どもたちはそれなりに楽しんでいた。

本当は子どもたちだけでの参加を求めたのだが、今回は当初開催が危ぶまれるほどでもあったので、「つかず離れず」ということで、参加者の保護者の参加も認めた。しかし、その方にこちらの意図を完全に理解して頂けなかったのはちょっと残念だった。子どもたちからは「今度はいつやるの?」などという声もあり、はじめの一歩としては概ね成功であるとともに今後に向けてのいろいろな課題も見えてきた次に繋がる教室となった。

ヒマラヤ初登頂 未踏への挑戦 尾形好雄著 東京新聞出版部刊

冬期サガルマータ南西壁初登攀をはじめとし、日本のヒマラヤ登山をリードしてきて、今は日山協の事務局長をされている尾形好雄さんが、これまでの登山と人生を振り返って書いた総ページ数357ページに及ぶ大作を紹介したい。尾形さんがはじめてヒマラヤを訪れたのは1974年。すでに8000m峰はすべて登り尽くされており、自らを大江健三郎の小説「遅れてきた青年」になぞらえて「(ヒマラヤへ)遅れてきた青年」と称した尾形好雄さんは、確かに8000m峰の初登攀争いには乗り遅れたが、その後ヒマルチェリ・マモストンカンリ・ガンケルプンスム・ギャラペリ・リモT峰・ピラミッドピークなど数多くの7000m未踏峰に挑戦、そのほとんどに登頂している。彼が訪れたこれらの山々は、まさしく「玉峰」の名に恥じない素晴らしい山ばかりである。さらにバリエーションでの8000mへのチャレンジ。以前長山協セミナーでお話しをして頂いたときにもスライドを見ながら、いつかまとまった形でこれらのことを知りたいなと思ったものであるが、その思いがかなった。

柳澤昭夫さんをして「あいつのバカ体力には脱帽だ。」と言わしめた尾形さんの体力の礎が、父親を早くに亡くしたことで家計のためにと小学校時代からはじめた自転車での牛乳配達にあったということ。原点である兄たちと中学時代に登った故郷安達太良山の記憶。福島工業高校山岳部のころ、生徒会長と折衝して部の予算を倍額にしたというエピソードなど、やはり若い頃から「タダモノではない」と思わせる記述は楽しい。

その後の方向性を定めた初めてのヒマラヤ登山である「ツクチェピーク」遠征への部分は、夢を追う若者の挑戦という意味で、若い高校生にもぜひ読んで欲しい。しかし、数々の栄光の陰には、信頼する「カメラード」たちを失った悲しい遭難も忘れてはならない。「ツクチェピーク」遠征前、20歳そこそこで初めて経験したチーフリーダーの遭難死という現実。この時の辛い経験は、山に登りたいさかりの若者にとって大きな試練であったという。その辛い試練を乗りこえる中で、「『仲間を育む』喜びを味わい、どんな困難な状況下でも『仲間を思いやる心』を培うことができた。」それが、その後の遠征でも尾形さんの強さと優しさ、そして厳しさになって活かされている。

常に最前線で指揮をとる尾形さんは、自らを「フォワード型の隊長」と自認し、その半生を振り返って、「『登山』とは茶道や武道のような奥の深い『道(どう)』というものかもしれないということだ。これが終わりのない行為に駆り立てているようで癖が悪い。・・・『道』とは生き方であり、私にとって山を登るというのは、生きるための精神の糧といえる。登山を『道』として捉えるのであれば求道の心を持って己を鍛錬する『道場』としてのヒマラヤの大自然は『道場』といえる。・・・」と結んでいる。