不定期刊行            337号  2009.12.24中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

駆け足中国訪問記 その9 別れのうたげ

30分という予定を大幅にオーバーしたCMA李致新さんとの会談を終えて、最後の晩餐へと向かった。訓練センター内の別棟にある招待所には、我々12名のほか、神戸大の登山隊5名、CMA関係者が顔を並べた。神戸大の副隊長の山田さんは、1986年に今回と同様地質大学と合同で「クーラカンリ(7554m)」に初登頂したときの隊員だそうだが李致新さんもそのときの中国側の隊員の一人であったそうで、ここでもまた「縁」というか「人のつながり」を感じずにはいられなかった。李致新、田村、山田(神戸隊の隊長は日程の関係ですでに帰国していたため)3氏の挨拶に続いて、宴会が始まった。登山訓練所の料理もこれまたなかなか美味しくて、話も弾み、酒も進む。

最後は今日もまた双方の歌合戦と相なった。長野からの信濃の国のあとは、神戸大が六甲おろしで対抗、どういういきさつかは失念したが、中国側は少女が10人ほど出てきて李致新が指揮をとって、オリンピックのときの歌(?)を披露してくれた。宴が最高に盛り上がったところで、みんなで歌おうと、最後は全員で肩を組んで北国の春を大合唱。我々も知らないのに中国人とりわけ李致新さんは、3番までしっかりと暗唱しており吃驚。宴が果てた後は、宿泊所に戻って盛大に2次会。かくして中国最後の夜は、更けていった。

最終日は、5時40分に宿舎を出発。6時15分には搭乗手続きが完了し、定刻の出発を待ったが、なんと北京市内の濃霧のため、2時間以上飛行機の中に缶詰め状態となり、テイクオフは結局10時50分だった。日本時間の14時50分に成田に着いた。

駆け足中国訪問記 その10 中国版「登山的智慧」

今回の旅のそもそもの発端となった「登山的智慧」の原書は「春夏秋冬 山歩きの知恵」という名前で出版されていることは前にも書いたが、中国版にするにあたって少しリライトされた部分もある。それがまたいい。

前書きは李致新さんが書いているがそこには次のようにある。「1987年に、私が中国登山協会から日本の長野県へ派遣され、現地の山岳協会と友好交流をおこなったのは、気がつけばすでに20数年前の事になりました。(長野県山岳協会会長の職にあった)田村宣紀先生は自ら交流活動を手配してくださり、当時の10何日かの間、私たち一行に講義をしてくださり、私たちと一緒に訓練し、一緒に登山をし、共にロッククライミングに臨み、また共に野外炊飯をおこなって、他の日本の友人たちとともに、手を取って私たちに教えてくださりました。先生は親切で優しい方ですが、しかし仕事の時には非常に厳格で、また先生の立ち居振舞いのうちに登山に関する豊富な知識と経験があらわれており、先生は私に深い印象を残しました。・・・(中略)・・・なぜなら、これは私たちが登山の知識を学ぶことを励まし、そしてその学習の過程で、個人が高山を征服しようとする情念と焦りの中で自己を見失わないように登山の理念を形づくってくれるからです。自分の技術を磨き、また技術を越える技巧、山の呼び覚ました私たちの内にある好奇心、驚嘆、悟り、感動の精神を体験して、心身ともに自由な野山におき、そこから深い内的平静を獲得する。これは非常に意義のあることです。登山を心から愛する友人たちが本書からなにがしか得ることがあるように期待します。・・・(李建華訳)」ここにまさにこの本の生まれるにいたった本質と今中国で発行される意味が書かれている。

また、李建華さんはあとがきで、「この度の中国語版は原書と違って、『随想』、『論集』は新たに書き下ろされたもので、この中の『母を連れて戸隠へ』『バガラのポーター』『日本・イラン合同ヒマラヤ、マナスル峰登山』など、著者が登山人生を巡って巧みに綴った物語に胸を打たれる。『危ないから』と登山に反対するお母様は、止めようとしない息子を見て『私を連れてってみろ』と言う。氷雨と濃い霧の降る中を息子と一緒に戸隠山に登ったあと、登山に反対しないばかりか、『来年の夏、富士山に連れってくれや』という。しかし、二カ月もたたないうちにお母様が癌と診断され、半年のうちに亡くなった。『もし、母が富士山に登ったら、次はどんな山へ行きいといったであろうか・・・』、ここまで読むと思わず目頭が熱くなった。お母様は息子の安全をわが身で確認していたし、息子はお母様を自らの行動で納得させていた。この真情が感動を呼ばないではいられない。人生は持つことではなく経験することにある。『登山の楽しみは、道中にあるように思う。時には立ち止まり、振り返り、道草を楽しむ登山こそ自然と親しめる』、と本書にある通りである。心に山があれば、夢があり未来があり希望があって、生命がより輝くものである。」と書かれた。

日本語版にはない「随想」「論集」をどうしても読みたくて、帰国後、田村さんにお願いしてこれらの原文を送っていただいた。そこには、二人の「李さん」が書かれたように、田村さんの登山との関わりが多角的に書かれており、この本を厚さ以上に中身のあるもの、単なる技術書ではない心の書にしていることを感じた。これらの一部は日本でも見ることができるが、陽の目を見ない部分もあるのが残念だ。・・・と思った。

駆け足中国訪問記 その11 「影山・ポーロ」の話

今回の旅の中で、影山淳さんと親しくお話ができたのも小生にとっては、意義あることだった。愛知県出身の影山さんだが、長山協のマナスル隊の時には日本人としては唯一のサミッターとなった。先に書いた田村さんの「随想」にも随所に登場し、田村さんとの友情が窺われるのだが、この影山さん、やはりタダモノではない。62歳になる今でもフルマラソンを走り(46歳の時にはサブスリーを記録)、我々と別れた直後の11月29日には上海マラソンに出場、ハーフを1時間46分で完走している。

その強靱な体力をもって、現在彼が追っている夢は「いにしえのマルコポーロが4年かけて歩いたシルクロードを、自転車ですべて辿ること」だそうだ。トルコの小港ライアスから中国まで忠実に史実を追うというこの旅は、言うは易いが、そんじょそこらの気楽な道楽と思ったら大間違いである。体力ばかりではなく、気候などの苛酷な自然条件、そして何よりも今は、治安状態や政治状況にも大きく影響される。そんな苦難の道を2003年からはじめた影山さんは、当初の7年計画より一年余分にかかったが、すでに敦煌まで走り終えており、8年目を迎える来年には完走する予定だという。その旅の様子は、影山さんのHPhttp://www4.tokai.or.jp/junkage/で見ることが可能である。影山さんは、趣味とおっしゃる水彩画も趣味の域を越えており、写真ばかりでなくこれもまた興味深い。ぜひ、興味のある方は、ご覧下さい。見ればそのすごさがわかります。