不定期刊行            338号  2010.01.04中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

2010年 最初の山行

年末からずっとすっきりしない天気が続いていたが、今日(4日)は午前中は青空が広がるとの予報である。子どもたちは昨日早々に東京と京都に帰り、女房は仕事始め。そこで、本年最初の山行(というほど大袈裟なものでもないが・・・)を計画した。

9時少し前に家を出て、向かったのは戸谷峰。9時20分三才山出合ドライブインの駐車場あとに車を停める。青空が広がり気持ちも引き締まる。野間沢橋(標高1000m)のとりつきまでは5分。9時25分、うっすらと雪の積もった登山道を一人登る。しばらく野間沢の右岸を高巻きながら進む。10時1190m、送電線の監視道への分岐に到着。雪もこのあたりでも5cm程度。ここから送電線の監視道を行ってもいいのだが、今日は、野間沢をこのまま最後まで詰めてみようと思い、そのまま直上する。野間沢は途中1400mあたりで傾斜は急になるが、往生するほどのものではなく、薮もそんなに濃くはないはずと読んだ。10時20分1370m付近で、何か生臭い「におい」がする。何だろうと思いながら、ふっと足の先を見ると、その「におい」の正体がわかった。鹿が一頭死んでいた。内蔵は食い荒らされているが、まだ死後それほど経過していないと思われた。目はうつろに虚空を眺めるかのように開いたままで死んでいる一頭の鹿に、思わず「ウッ」となったが、なぜか次の瞬間には手を合わせていた。どういう理由で死んだのかはわからないが、この死んだ鹿に「いのち」を感じた。

沢はこの先1390m付近で二股に別れているが、右股を進んだ。このあたりから傾斜は急になった。沢の芯からやや外れた左岸を上っていく。雪の量はそれほどかわらないが、傾斜が急になった分だけ少し歩きにくい。いっそもう少し雪が合った方がいいのにと思いながら、一歩一歩歩を進める。あたりには縦横無尽に野生動物が歩き回ったあとが見える。この山は思いの外、野生動物が多いと実感される。ニホンジカ、ウサギ、イノシシ、カモシカなどと思われるものが多いが、それ以外にもいくつかの足跡があり、気づいただけでも6種類くらいは違う足跡が観察できた。一つ、熊の足跡のようなものもあったが、冬眠していないのだろうか?ちょっと疑問。

急な斜面をおよそ15分の登りで、稜線直下の送電線監視道に出た。そこから2分ほどで、鉄塔の建つ稜線上のコル(1500m)に到着。西に戸谷峰が見えた。ここから一気に上り詰めると頂上である。

稜線上はパウダースノーが15cmほど積もっており、むしろ歩きやすい。下を向いて歩いていると、突然上の方で「ピュー」という甲高い鹿の鳴き声がした。ふっと上を向くと、7〜8頭の鹿が斜面を横切って逃げていった。10時50分、頂上着。北アルプス方面は、眺望絶佳とまではいかなかったが、乗鞍から蝶、常念、大天・・・蓮華、爺、鹿島までが雲の上に顔を出していた。一方で南の方は雪をいただいた美ヶ原、鉢伏が美しく、東の菅平も真っ白く見える。無風であり、登山シャツ一枚でも寒くない。

テキスト ボックス: 美ヶ原と鉢伏山11時15分、山頂をあとにする。帰りは、ノーマルルート(送電線の監視道)を下りることにした。尾根をしばらく下り始めて1400m付近を通ったときのこと。確認できなかったが、真っ黒い生き物がものすごい勢いで走り去っていった。なんだったのだろう?とにかく今日はあちこちで野生動物の息づかいを感じた。

11時50分駐車場着。穏やかな日だまり歩きは、今年一年の最初の山行としては、まずまずだった。

09駆け足中国訪問記 その12 井戸を守っていくこと

僕にとっては今回の中国は8回目。初めて訪れたのは1991年だったが、そのころは田舎はおろか、上海などでも人民服に人民帽という姿も散見し、西安の市街でもガートラが走っていた。当時の西安には、中国で初めてと言われる高速道路が、華清池から兵馬俑に続く僅かな区間で開通したばかりであり、外貨政策として「兌換紙幣」などという紙幣もあるくらいの特殊な世界であった。

今は昔の物語、まさに隔世の感である。今や中国はカナダに次いで世界二番目の高速道路網の建設を成し遂げ、時速350kmの特急列車が広州と武漢を結ぶようになったというニュースも耳新しい。改革開放政策の中で、2001年にはWTOにも加盟して、産業も飛躍的に伸び、GDPは、世界3位のレベルにまで達している。

広い中国だから、場所が変われば印象が変わるのは当然だし、それを十把一絡げで論ずる愚かさは承知の上での意見だが、全体としてこの20年あまりの中国の変わり方は、僕が20年前に抱いた予測をはるかに凌いでいる。とりわけ、オリンピックを挟んでの首都北京のこの数年の変貌ぶりには驚かされることしきりである。そしてもう一つの直轄市上海も、2010年の万博を前に急ピッチで変貌していると聞く。東京オリンピックと大阪万博の間には6年のタイムラグがあったが、北京のそれと上海のそれは2年。何か象徴的な感じもする。しかし、中国の現状は、繁栄の一方で、全世界的な不況、民族問題など負の要因も抱えながらのそれでもある。建国60年を経過した大国は、13億の民を一体この先どう導こうとしているのだろうか。

しかし、どんなに中国が変わろうと、民間レベルでの、また人と人とのつながりで築いてきたCMAと長山協の交流には、亡き吉澤一郎さんを初めとする多くの「井戸を掘った」人々の精神が息づいている。その限りにおいてしっかりと根を張った「交流の木」がますます枝葉を茂らせ、幹はより太くなっているのを、今回田村さんに同行させていただく中で実感した。

時代は間違いなく変わっている。そしてその変化に対しては、日中双方が否応なく受け止めた上で、より現実的に対応して行かねばならない側面を示している。新時代に即した新たな交流の形をどう築いていくか、それは「井戸を守っていく」僕らの世代に課せられた使命でもある。そんなことを考えさせられる貴重な訪中であった。