不定期刊行            341号  2010.02.03中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

山岳総合センター 講師研修会 1 雪の観察

1月30日、31日は黒沢尾根で山岳総合センターの講師研修会が行われた。参加者は全体で45名とこれまでになく多かったのだが、センターのリーダーコースの方が半分近くを占め、山岳会からの参加者が少なかったのは、共催している長山協の指導、遭対の両委員会の立場からすれば気になった。そんな中で高校関係の参加者は、松田(県ヶ丘)、久根(高遠)、相馬(松本筑摩)と小生の4名。

初日の実技は、最初に全体に向けて講師の東秀訓さん(国立登山研修所専門職)から、「雪崩回避のためには地形判断、気象判断等、他にも重要な事柄があることを十分認識した上で、雪に関する知識とテスト方法を知ることにより、雪崩回避のための判断力を養う一助とする」と目的が示され、その上で雪質観察の方法やその意義、シャベルコンプレッションテストなどの説明があった。そのあと班ごとにスノーピットを掘り、雪質観察と弱層テストを行った。

以下は小生の班が行った北東斜面の雪の観察の結果である。この部分の積雪は200cmだったが、10cmおきに雪温を測り、グラフ化してみた。185cmのところにある氷板は27日の好天に続く28日の雨で形成されたものと考えられ、その上の雪は直前29日に降った新雪だと思われる。その下もいくつかの層があり、125cmのところから107cmまでは霜ザラメの厚い氷板が形成されていた。雪の断熱効果で降雪時の温度が保たれること、雪中の温度勾配が霜ザラメ層を形成、発達させること、地表面は0℃であることなどがよくわかる。ちなみにこのときの外気温は−0.5℃、時刻は13時ごろであった。

こうして雪の状態を調べたあと、いくつかの弱層テストもしてみたが、少なくともこの斜面においては、かなり雪は安定していた。年に一度大きなピットを掘って、雪をじっくり観察して、雪の性質を知るということはいつも自分への戒めになる。ただし、いつも言うように我々は「弱層テスト」の結果に囚われすぎるべきではない。これはあくまで一つの指標であると考え、ほかのさまざまの要素も含めた総合的な判断をしなければならない。

夕刻からは、センターで「雪崩のメカニズムと埋没者の探索方法」について講義を受けた。ただの机上の空論ではなく、東さんの経験に裏打ちされた話は説得力もあり、わかりやすかった。1時間半という時間を効果的に使った関西弁のテンポのいい話は「雪崩」の定義から始まり「登山者としての準備」、「万が一の場合の対応」まで一通り押さえた内容であった。低体温症に対する対応としての保温と加温の違い、保温はすべきだが、急速な加温(手足のマッサージなど)は、身体が冷やされた状態で冷えた血液が心臓に戻るから身体が持たずレスキューデスにつながるとか・・・聞いたもん勝ちの話はありがたかった。

講義後は、班ごと2日目に行う予定の雪崩捜索方法についての協議を行った。今回は、捜索訓練を、より活かすために2グループでそれぞれ「行い」、「観察し」、「検討し」、「もう一度行い」、「検証し」という流れの中でやってみようということが提案された。小生が班長を務めた2班は5名だったので、これを二つに分けての訓練は困難だったので、6名で構成されている1班とコンビを組んで、相互に訓練を仕組み観察し合うこととして、翌日の訓練に向けての方針を時間をかけて検討した。この結果については、次号に掲載する。

編集子のひとりごと

1月23日、大町市内某ホテルにて「大町山の会」の創立50周年のお祝いの会が開かれた。県内各地から懐かしい多くの山仲間が集った。山の会の現会長の榛葉氏は僕と同世代だが、高校時代から山岳部に所属し、正当な登山をしてきた尊敬すべきクライマーである。50周年の記念誌の中で榛葉氏は、「高校時代の担任が山岳部顧問でもあり、大町山の会の会員でもあった。幼いころより東山を遊び場としていたこともあり迷わず山岳部に入部した。」と書いている。さらに、「部活では運動部という認識はなかったが、師からは『山は体力が一番だ』『トレーニングしろ』といわれ、ランニングは毎日した。また、当時は高校生の岩登りは禁止されていたが、仏崎で師が垂壁をアブミ掛け替えで登攀している姿は『ウルトラマン』に見えた。」とも記している。高校時代に、こんな顧問と出会えた榛葉氏は幸せである。将来、彼のように山を続けてくれる教え子がいれば、教師としても本望である。榛葉氏は、祝賀会の挨拶の中で「ここにいる皆さんは私の師です。」と述べられたが、その思いは僕にとっても同じである。「山」という共通の趣味をもつ師に育てられたから今の僕もある。僕も、高校で時代に良き師に出会い、山のすばらしさを教えられ、さらに社会人になって多くの師に育てられた。(大西 記)