不定期刊行            347号  2010.03.30中信高校山岳部かわらばん     編集責任者 大西 浩

木曽高等学校定時制

もっともっと教えて欲しかった・・・訃報柳澤昭夫さん逝く

3月23日未明、かねて闘病中であった長山協会長の柳澤昭夫さんが亡くなられた。僕自身、柳澤さんのご自宅近くの池田工業に赴任が決まり、これからいろいろ教えていただきやすくなったと思った矢先の訃報に接し、まさに痛恨の極みである。

昨年7月のことである。柳澤さんから話があるので自宅まで来てくれないかと言われた。「中部地区中高年安全登山指導者講習会」を控え、そのシミュレーションと位置づけた山岳総合センターの「講師研修会」について、「大西さん、私のかわりに講師をやってくれ。センターには全部話をしてあるから。」というのが話の主眼だった。突然のことで戸惑う私に、柳澤さんは「実は癌がかなり進行している」と打ち明けられたのだった。その時はまだ、こんなに早いお別れが待ち受けていようとは思ってもいなかった。まだまだ生きる意欲に満ちておられ、したいこと、やり残したことなどを次々と語って下さった。長山協のことは心配せずに病気に打ち克つことが先決とお伝えし、8月からは、宮本さんに会長代理をお願いし、一日も早いご快復をお祈りする日々の始まりだった。

9月末に行われた「中部地区中高年安全登山指導者講習会」のときには、すでに抗癌剤治療を始めていた柳澤さんだったが、最後の力をふりしぼってされた2度にわたる講義は、いつもながらの、理論はもとより体験に裏打ちされた深みのある内容であった。ザイルの結び方一つとっても、単なる技術ではない本物の知恵を教えていただけたと思っている。しかし、講義前後の疲れたご様子は、確実に病魔に冒されているそれであった。中高年登山に警鐘を鳴らしたいと、文登研時代にこの講習会を立ち上げた柳澤さんの命を削ってまでの執念の講義であった。

その後、入退院を繰り返していた柳澤さんのもとを数回お尋ねしたが、いつも登山界全体のことを気にかけておられ、いろんな山の話を聞かせて下さった。恐らく伝えたいことはまだまだあったに違いない。よちよち歩きで頼りない私をもっともっと叱咤してほしかった。

文登研での勤務が長かった柳澤さんと私の接点は、実質的には崑崙のカシタシ登山を計画したころからのことである。それ以前にも文登研の研修会などでお世話になったが、当時は私にとっては雲の上の存在であった。そんな僕は、唐沢岳幕岩での登攀記録をはじめとする数々の登攀記録やガウリサンカールやバギラティでの柳澤さんの登山を語る資格を有していない。6年前に柳澤さんが長山協の会長に就任されたとき、たまたま事務局長を仰せつかったということは僕の人生にとって大きな出会いであった。以後の6年間は、僕にとっては本当に密度の濃い日々だったのだから。いつも本質的なことを外さず、原則的な対応をされる柳澤さんと一緒に西蔵登山協会を訪問したのは、2006年のこと。友好協定締結20周年の記念事業をどうするかということを両協会のトップ同士で直談判してきた。結果的には、西蔵情勢の変化もあって、計画していた合同登山は頓挫してしまったが、柳澤さんと西蔵で経験してきたことは無駄ではなかった。

相次ぐ中高年登山の遭難や山岳会の停滞状況などを憂え、知識や情報の偏重に対しては知恵や経験の重要性を提起するなど、柳澤さんの発言は常に的を射ていた。それらを登山界の共有のものにしようと長山協のHPや機関誌「やまなみ」で訴えておられたが、意見をオープンにすることは同時に他人からの意見も受け入れることであると、それを補完する意見にはいつでも耳を傾ける姿勢を持ち続けていた柳澤さん。そんな柳澤さんの包容力の大きさも魅力であった。本当に山が好きな大きな大きな人だった。

大正末から昭和初期の鹿島槍の積雪期登攀の研究、とりわけ小矢部全助などの登攀記録の掘り起こしは、日本における最初期のアルピニズムにスポットをあてる画期的な研究業績だと思う。教師としての僕には、本郷高校での教員時代を懐かしむ柳澤さんと教育論を語り合ったこともまた別の一面を知らされる思いであった。

1月末にお邪魔したときにお会いしたのが、最後となってしまった。もうあまり固形物は喉を通らないご様子で、横になったままの柳澤さんだったが、枕元にお孫さんが寄ってきたときは相好を崩し、家族思いの好々爺の風情であった。たくさんの山の本と趣味の域をこえたご自身の描かれた山の絵に囲まれたご自宅に伺って、膝を交えて夜遅くまで山のことを語り合うことももう叶わなくなってしまった。

柳澤さん、本当にお世話になりました。ありがとうございました。安らかにお眠りください。そして大好きだった山の遙か上から、僕らを見守ってください。

渡会意士さんを偲ぶ会

山仲間の渡会意士さんが亡くなって1年半近くが経った。実は渡会さんと柳澤さんは同い年である。学部こそ違え、大学時代にご一緒だったことをかつて柳澤さんからお聞きしたことがある。柳澤さんから「癌」と打ち明けられたとき、その一年前にやはり癌に冒され、抗癌剤治療を続けるも、治癒は叶わなかった渡会さんの闘病生活についてもお話ししたものだった。

一周忌を過ぎた去年秋、勝野順さんから「我々の山仲間で早世した渡会さんを偲ぶ会を開こうじゃないか」とメールがあった。広い渡会さんの人脈の中で、信高山岳会を中心に、かつての高校山岳部に関わった山仲間に声をかけた。3月28日に会場の穂高温泉郷「常念坊」に集まったのは、勝野順、西村忠彦、宮本義彦、青山誠、高橋清、松田大、飯沼健樹、浅川行雄、赤羽康定、沼田陽子、今井秀幸、下岡英樹、大西浩の13名。

温和で人とは決して争うことのなかった渡会さん、やや猫背加減で山ではゆっくり歩を進める渡会さん、渡会さんの人柄や山でのエピソードが次から次へと語られた。渡会さんの思い出を語り合いながら、夜の更けるのも忘れてしんみりと酒を酌み交わした。渡会さんの人徳がいい酒を飲ませてくれた。